聖書=(旧約)イザヤ書53章1-5節
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
おはようございます。この週も、皆さまとご一緒に、聖書を読み、神さまを礼拝することができることを、心から感謝いたします。教会暦によりますと、今、私たちは主イエスのご受難を覚える記念の時を過ごしています。主イエスは、金曜日に十字架につけられ、墓に葬られました。そして土曜日の安息日を過ごして、次の日曜日が復活節、イースターの礼拝です。そこで今朝は、旧約聖書から受難の主を覚える話しをさせていただきます。
旧約聖書・イザヤ書53章1-5節をお読みいただきました。この個所は「受難のしもべの歌」と、一般に言われています。ここに記されている「この人は」、「彼は」と言われているのは、いったいだれのことを指しているのでしょうか。預言者自身とか、ある王の姿であるとか、いろいろに推測されますが、預言者イザヤの生きた時代、具体的に「この人」と同定することは出来ませんでした。謎の存在と言っていいでしょう。
やがてイザヤの時代から800年ほどの後に、イエス・キリストが、「人の子は、このようになる」と、このイザヤ書53章の語る苦難を受けるしもべの姿をご自分のこととして受け止められました。ここに記されているのは、やがてこの地に来られる救い主イエス・キリストとその受難の出来事が預言として描き出されているのです。
では、どのように描かれているでしょうか。1つの点は、貧しく、見栄えのしない人の姿として描かれていることです。私たちは、イエス・キリストのどのようなところに引きつけられるのでしょうか。姿、形が美しいことでしょうか。道徳的に立派にところでしょうか。スーパーマンのように水の上を歩いたりするところでしょうか。
それも確かに、イエス様のお姿の一面ですが、むしろ、私たちが引きつけられるのは「見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない」というところではないでしょうか。何の美しさもない、威厳もない、人に嫌われ、見捨てられるキリストのお姿が、むしろ、多くの人を引きつけるのです。
第2に描き出しているのは、この人は痛みと病を知っている人であるということです。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている」と記されています。イエス・キリストというお方は、同胞のユダヤ人から軽蔑され、見捨てられました。弟子たちさえも、主を見捨てて逃げ去ってしまったのです。人に見捨てられる痛みを知る人でした。
そして、最後には、彼が心から頼りとしていた神からも見捨てられたのです。十字架の上で「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだことが記されています。彼、イエスは、人間の持つ痛みと弱さを真実に知った人でした。心に傷を持たない人には、あまり魅力がありません。他の人の痛みや弱さを分からないからです。人生万事、自分の思いとおりにやってきたというような人には、痛みや弱さを抱えて生きる人に対する深い洞察や理解、思いやることに乏しいのです。
しかし、その「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と記されています。これこそ、十字架のキリストのなさったみ業です。十字架の主イエスのお姿を想い見てください。主イエスは、むち打たれ、体中が傷だらけでした。それだけでなく、釘付けられ、槍で刺され、まさに全身「傷」そのものとなられたと言っていいでしょう。
主イエス・キリストは、ご自身の十字架の傷によって、私たちを罪と滅びの中から救い出してくださいます。人々に見捨てられ、神に見捨てられ、深い傷を負われた方が、私たちの心の傷と痛みをいやしてくださいます。この救い主・キリストの到来が、イザヤによって語られたのです。その救い主が、この地上で痛み苦しむ私たちの傍らに立ってくださる方になられたのです。十字架に付けられて全身に傷を負われたお方が、私たちの傷を包み、慰めを与えてくださる方です。十字架のイエス・キリストを見上げて、「主よ」と祈ってみてください。それによって、主イエスは、あなたに永遠の命を与えて、あなたを神のものとしてくださいます。主のご受難を覚えつつ、この数日を過ごしてまいりましょう。