聖書=旧約・詩編16編7-11節
わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
今回は、旧約聖書の詩編16編の後半からお話しいたします。先ずは新約聖書をお読みいただきたいのですが、病床や苦難の中にある方は、ぜひ、詩編をも読んでみていただきたいと願っています。お手元に旧約聖書の詩編を置いておき、時折、お読みくださったら、大きな慰めを受けられると思います。詩編は1つ1つが独立していて、しかも短いですから、どこから読んでくださっても結構です。つまらないと思うところは飛ばしてくださって結構です。良いなあ、と思うところを選んで読んでください。
この詩編16編は、神への信頼を歌いあげています。この詩編の作者は、いったん命に関わるような非常な危機に陥りました。死の危険に直面したと思われます。絶望の中をさ迷っていたようです。そのような人が救い出され、神に向かって賛美と信頼の声をあげている。それがこの詩編のテーマです。
この詩の作者は「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」と言います。「陰府」とは、旧約の時代の人々が死んでから行く場所と考えていたようです。この詩の作者は、陰府の淵をさ迷うような経験をしたのではないでしょうか。肉体的にか、それとも精神的にか、あるいはその両方であったのか、分かりませんが、死の淵をさ迷うような深刻な経験をしたのです。
詩の作者が「あなた」と親しく呼んでいる神は、その死の淵から、陰府の中から、この詩の作者を呼び戻してくださった。回復してくださったのです。それだけでなく、「命の道を教えてくださいます」と語ります。「いのちの道」があることが示されたというのです。この「いのち」とは、ただ心臓が動いているということではありません。現代は科学や医学が発達し、「いのち」を物理的側面だけで考えてしまいます。
しかし、この詩人は、まったく違う「いのち」があることを語っているのです。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません」。神と共にあること、神と相対していること。これが聖書の語る、この詩編の詩人が語る「いのち」なのです。神と共にあること、これが永遠のいのちと言っていいでしょう。
この神と共に生きる、神に在って生きる「永遠のいのち」が、一筋の道としてわたしたちの前にも開かれているのです。それが、主イエス・キリストを信じる道です。主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ福音書11:25)と言われました。主イエス・キリストを信じるところで、キリストと1つに結ばれて、わたしたちもキリストのいのちにあずかることが出来るのです。キリストとのいのちのシェアー、いのちの分与をしていただくのです。
神と共にある永遠のいのちの恵みに回復されて、この詩編の詩人は満足を経験するのです。あれが足りない、これがないという嘆きではなく、人生の充足を経験したのです。それが11節の終わりの言葉です。「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます」。神の御顔、イエス・キリストの御顔を仰ぎ見るところで、人生は充足するのです。これでよしとなる。そこから、喜びが溢れてきます。神への賛美と信頼が生まれてまいります。