聖書=ルカ福音書12章54-56節
イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
少し古い話になります。「KY」という言葉があるようです。はじめ、わたしには何のことか分かりませんでした。ある時、新聞を読んでいたら「空気を読めない」と言う意味の言葉だと知りました。周囲の状況を判断できる、人の気持ちを読むことが出来る、これは大事なことです。最近では似た言葉で「忖度」という言葉が流行しているようです。
この聖書個所は、このような「空気を読むこと」に関わります。主イエスは、取り巻いている「群衆」に語りかけます。主イエスは言われます。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる」と。二千年前のイエスの時代、今日のような正確な天気予報などはありません。しかし、当時の人々も天候の変化に無関心ではなく、よく観察をし、天候を予測しました。熟練した農夫や漁師はある程度正確に天候を読むことが出来たようです。このようなことは洋の東西、日本でもユダヤでもあまり変わらないでしょう。
主イエスは、あなたがたには気象を正しく判断する能力がある、複雑な気象も読み解くことが出来る、賢いと言われたのです。あなたがたは、時を判断する能力が十分にある、と言われたのです。そして、次に言われました。「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」と。
「偽善者よ」とは、たいへんきつい言葉です。主イエスは、今までこの言葉をファリサイ派、律法学者に対して用いて来ました。しかし、ここでは、そのきつい言葉を一般民衆に向かって語られたのです。なぜ、こんなきつい言葉を一般の人に向かって言われたのか。「偽善」(ヒュポクリス)という語は、古代の演劇俳優が仮面をかぶって演じたところから来ています。
今、主イエスの周りに多くの人が集まって来ています。表面的にはキリストの弟子のようです。しかし、仮面を付け替えるように、この人たちはやがて手の平を返してしまう。イエスの周りに集まった「群衆」は、イエスが捕らえられると「十字架に付けよ。十字架に付けよ」と叫び出す。定見がない。時の流れのままに、指導者が右と言えば右に、左と言えば左に向いてしまう。調子がよい。
けれど、主イエスは、あなたがたには難しい気象さえ読む力がある。時の勢いに流されないでしっかり今の時代を読み解きなさい、と言われたのです。「今の時」とは、カイロスという語で、時、時代と訳されます。「今の時」とは、「今、何時?」と時刻を尋ねる言葉ではありません。聖書では、このような「時」がしばしば語られています。時代を画する意味を持つ「時」なのです。マルコ福音書1:15「時は満ちた」と記されます。主イエスは「わたしの時」と言われました。パウロは「見よ、今は恵みの時」と言います。このような時が「カイロス」なのです。
ある特別な意味を持つ「時」です。ある定められた特別な時のことです。神の御子が人となって下さった時、そのお方が十字架の贖いをして下さる時、神の救済の出来事の時です。神の訪れの時と言ってよい。それが、主イエスが語られた「今の時」なのです。この時には、前兆があります。前もって読むことが出来る。空気が分かるのです。あなたたちは難しい天候さえも読むことが出来る。どんな前兆があれば、明日は晴れか、雨が降るか、正確に読み取っている。しかし、どうして神の訪れの時を読み取ることが出来ないのかと言われたのです。長い間、神の民とされてきたあなたがたが、今の時、神の訪れの時を、どうして読み取れないのだと、嘆きをもって問うておられたのです。
主イエスは、今、再び、今日の日本のこの時代に生きるわたしたちに向かって、「今の時を見分けること」を求めておられます。平和が失われ、再び、若者が戦いを学ぶ時代の到来の足音が聞こえています。自由に学ぶこと、自由に自分の思いを表現できること、そのような基本的な人権が失われる時代の到来が、目の前に見えてきているのではないでしょうか。暗い雨雲がかかりはじめ、遠雷の音が聞こえています。このような時のしるしを読み解いて、正しい判断をしていかねばならないのです。傍観と無責任は、後に大きな悔いを残すことになります。わたしたちは、時代の中で、責任的に生きねばならないのです。