聖書=ルカ福音書12章49-53節
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
今回は、この箇所からの話とさせていただきます。この箇所の主イエスのお言葉を読んで、皆さまはどんな感想を持たれるでしょうか。「いつものやさしいイエス様のお言葉とは違うなぁ」という印象を持つのではないでしょうか。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。イエス様のお言葉とは、どうも思えないと言う方もいるかもしれません。「これだからキリスト教は嫌だ」と言う方もいるでしょう。
主イエスは、社会の空気を読むような風潮に対して、キリストの弟子の生き方を示しているのです。主イエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われました。
この「火」は神の火、聖霊の火です。さらに聖霊によって引き起こされる信仰の火です。主イエスは、救い主としてこの地に来られた時、救い主を待つ信仰、救い主を信じる信仰がイスラエルの国中に広がっていたらと願っていました。ところが、神の民であるはずのイスラエルに神の火は燃えていませんでした。
そこで、主イエスご自身が人々の心の中に聖霊の火を投じてくださったのです。主イエスは火を点じられたお方です。聖霊の火を投じてくださった。主イエスの伝道は、この火を投じる働きでした。主イエスによって投じられ、点じられた聖霊の火が、人に信仰をもたらし、その信仰もまた燃える火となります。火はすべてのものを燃やし尽くします。信仰は人を燃やし、人生を燃焼させるのです。ペトロもそうです。パウロもそうでした。聖書の人物だけでなく、多くの歴史上のキリストの弟子たちもそうでした。聖霊と信仰とは人生を燃やし尽くすのです。
本物の信仰は、その人の人生を燃やし尽くすのです。「火を投ずる、火に燃やされる」とは、全身、丸ごとキリストのものとなることです。身を捧げる献身です。火には激しさがあります。キリストの支配の中で真剣に生きる者となる。そうでなければ献身は起こりませんし、人を動かすこともありません。一握りのキリストの弟子たちが聖霊に満たされた時に、大胆に力強く主イエスを証しして、キリストの教会が出発しました。神のため、キリストのために、身を献げて生きることが起こる。そこで初めて多くの人が動かされていくのです。教会の歴史は、火となって燃やされた人たちによって前進してきたのです。
そして、主イエスは、火が燃やされる時、火が投じられる時、そこに苦難があることを語られました。先ず、主ご自身がその苦難の先駆けとなることを示されたのです。「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」。主イエスが言われた「受けねばならない洗礼」とは、十字架の苦難を指しています。主イエスご自身が、十字架においてご自身を丸ごと献げつくしてくださいました。主イエスはご自身を十字架に渡し苦難を受けられました。主イエスが最初に火のような苦しみを受けられたのです。
主イエスご自身が火となって引き受けてくださった苦難によって、わたしたちも、今、燃やされているのです。十字架の恵みに応えて、わたしたちもキリストの弟子として生きるのです。十字架において示されたキリストの愛の熱さ、火のような愛の激しさに触れるところで、触れた人の生涯がまた火として燃やされていくのです。
わたしたちの心は、キリストの愛によって燃焼しているでしょうか。燃焼していることは、キリストのための苦しみを引き受けることです。パウロはこう記しています。フィリピ書1章29節「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。わたしたちもそれぞれの十字架を担って、生涯を燃焼させていくのです。