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第23回 平和をつくる者

聖書=エフェソ書2章14-18節

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

 

    まもなく8月15日、「敗戦記念日」が巡ってまいります。そのため、この聖書箇所から「平和」について記すこととします。「キリストはわたしたちの平和」と記されています。ここで記されている「平和」には2つの意味があります。

 第1に、神と私たちの間の平和です。これは罪の赦しの恵みと言っていいでしょう。神と私たち人間の間を隔てているのは罪です。アダムの子孫としての私たち人間は、神から離れ、自分勝手に生き、神なんかいらない、むしろ神を憎み、神から逃亡して生きています。しかし、神はこのような罪人を愛して、罪ある人間の真ん中に入ってきてくださいました。イエス・キリストです。キリストは私たち罪人と神とを結ぶために十字架を担ってくださいました。

 主イエスは、ご自分の体を十字架につけることによって罪人の神に対する敵意という隔ての壁を取り壊してくださいました。私たちの罪を償い、神にとりなし、それによって赦しを獲得してくださいました。ここに神と人との和解、神との平和が与えられました。キリストを信じ、キリストに結ばれている人は、神との平和を得ているのです。これが「キリストはわたしたちの平和」の1つの意味です。

 ここに記されている「平和」には、もう1つの意味があります。それは私たちの使命と関わります。人間の世界に平和をつくり出す使命です。私たち人間の世界は、決して平和ではなく、むしろ争いの世界です。国と国だけのことではありません。人が何人か集まると争いが起こります。夫婦の間でも、親子の間でも、親しい人の間でも醜い争いが起こります。競争や憎しみ、時には「この野郎、死んじまえ」という思いが沸き起こる。聖書が記す最初の殺人事件は、アベルとカインという兄弟同士の殺し合いでした。

 この争いの世界の中に、私たちは平和をもたらすために派遣されているのです。平和をもたらす、平和をつくりだすとは、敵意を取り除くことです。一つになるべきものを二つに分かれさせるものは「敵意」です。敵意は、敵とは違います。敵を作る私の心です。敵は他者ですが、敵意は私の中にあります。私たちは「敵」のことばかり考えて、自分の中にある「敵意」を忘れています。「敵意」とは、相手を否定する自己主張の心です。キリストは敵を滅ぼされたのではなく、敵意を取り除いてくださいました。神の敵である罪人を愛してくださったのです。

 互いに憎み合い、罵り合ってきた、ユダヤ人と異邦人とをあたかも一人の人のように和解させた。これがキリストの十字架です。簡単に和解できるものではない。何千年にわたる争いの歴史がありました。しかし、主イエスはこの和解のためにも十字架を担われたのです。この主イエスの和解の働きを人の魂の領域だけに閉じ込めてはならないのです。現実に、人と人との関わり、国と国との関わり、民族と民族との関わりの中にも、神の和解、シャローム(平和)を追い求め、祈り求めていくことが求められているのです。

 キリストに贖われ、神との和解の恵みをいただいた者は、この世界の平和を祈り求め、平和を実現していくことを、召し、召命として受けとめていくのです。一人ひとりが、平和への召しを受けとめて、生活の場で、いろいろな活動の場で、大胆に平和を追い求めて生きていくことを願っています。