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第25回 新しい生き方を形づくる

聖書=ルカ福音書5章33-39節

人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

 

 キリスト教は、「どう生きるか」という生き方を真剣に考える信仰です。イエスの伝道活動が始まった時、周囲の人々はその活動に注目しました。特にユダヤ人の重要な宗教伝統であった断食について、イエスはどう教えるだろうかと注目していました。ところがイエスは断食についてほとんど教えない。断食を規律として課すことはしていませんでした。

 そのことを尋ねた人たちに対して、イエスはキリストの弟子の生活のあり方を3つの例えで教えました。1つは結婚式、婚礼です。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」と言われました。結婚式は喜びの時、共に生きる喜びです。花婿が共にいる喜びです。キリストを信じて生きる生活とはイエス・キリストがいつも一緒にいてくださることを喜ぶ生活です。信仰生活を修養と勘違いする人がいます。人間を外側から規制し厳しい訓練を課します。修養は自分の努力です。しかし、キリスト教信仰はイエス・キリストを信じてキリストと共に生きることです。キリストと共に生きる喜びの生活です。

 次に、イエスが語ったのは、服に継ぎを当てる例えです。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」。着古した服が綻びたので、新しい服を潰して古着の繕いに当てるようなことをするだろうか、と言われた。継ぎはぎをするという考え方です。キリスト教信仰の生活は首尾一貫したものです。

 和魂洋才という言葉があります。日本人の魂、日本の精神に西洋の科学技術を接着させようとしました。キリスト教の基盤の中から成長し成熟してきた思想、民主主義や人権についての考え方を、それらを産み出した基盤を取り外して技術的に輸入してうまくやろうと考えた。あらゆる所で木に竹を接ぐような和魂洋才式のやり方がなされてきました。しかし、キリスト者の生活は継ぎはぎでなされるものではありません。古い着物に継ぎを当てることではなく、古い着物を脱ぎ捨てて、キリストという新しい着物を着て生きるのです。

 イエスが語られた3番目の例えは、ぶどう酒と革袋の例えです。古代のユダヤでは、羊や山羊などを屠った後、皮を丸ごと袋にします。革袋と言います。それに水やぶどう酒などを入れてラクダに背負わせて旅行します。革袋は新しいうちは弾力性がある。古くなると弾力が失われます。弾力性を失った古い革袋の中に発酵力のある新しいぶどう酒を入れると、耐えきれずに張り裂けてしまう。イエスは「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」と言います。

 イエスは、キリストを信じて生きる弟子たちの信仰生活を絞り立ての発酵力あるぶどう酒に例えているのです。新しいぶどう酒はフツフツと発酵している。強い生命力がある。伝統的な形式や宗教的な規制でまとめることは出来ません。革袋は必要です。キリストを信じる信仰には、それにふさわしい容器、革袋を必要としているのです。キリストを信じる信仰を与えられた人は、新しい生活の在り方をしていくこととなります。私たちには課題があります。置かれている状況の中で、キリスト者の新しい生活の形を産み出すことです。内側から溢れる信仰の力によって、その信仰を表現する生活のあり方を新しく形づくっていく使命があるのです。