聖書=ルカ福音書1章5-14節
ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
今回は、祈りについて記すこととします。皆さまは「祈り」をしたことがあるでしょうか。この聖書箇所は「祈りは聴かれる」ことが記されています。キリスト教信仰の1つの特徴は拙くても自分の言葉で祈りをすることです。決まり切ったお題目や念仏を唱える祈りではありません。自分の言葉で、身近な課題について、あれもこれも熱心に祈ります。立派に整えられた言葉でなくていい、どんなに拙い言葉でも、自分の言葉で神に祈るのです。
けれども、祈りを捧げながらも、祈りが本当に聴かれている実感を、どれだけの人が持っているでしょうか。なかなか祈りが聴かれないと思うことが多いのではないでしょうか。自分の配偶者が信仰を持ってほしい、子どもが神を信じてほしいと祈っている。けれど、聴き届けられる様子がない。祈りは聴かれないのではないか、と不信に陥ってしまう。そしていつしか習慣的な祈りに堕し、祈ることさえも忘れてしまう。
ここに一人の人が登場します。名をザカリアと言う年老いた祭司です。ザカリアは、この時「主の聖所に入って香をたく」奉仕に当たりました。「香をたく」ことは、祭司としての晴れ舞台と言っていい務めでした。イスラエルの民を代表して、民のために祈りを捧げる。香を焚くことは祈りの印です。香がゆらゆらと立ち昇る姿が、祈りが神のもとに達して聴かれる姿を表していました。
この時、祭司ザカリアの家庭は大きな課題を抱えていました。それは子がないことです。「二人とも既に年をとっていた」。ザカリアは妻と共に子が与えられることを真剣に祈ってきました。何年も何年も祈ってきました。祭司は世襲です。子がないと祭司ザカリアの家はここで途絶えてしまう。そのため、「主よ、子を与えたまえ」と何十年も祈ってきました。ところが祈りが聴かれません。「もう自分たちの祈りは聴かれないのではないか」と考えたのではないでしょうか。今では、子を与えないことが神の御心なのではないかとさえ、覚悟していたのではないでしょうか。年寄りになり、もうあきらめていました。
その時、天使が語りかけます。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」。「あなたの願いは聞き入れられた」と言われました。何十年と祈ってきた祈りが聴かれたのです。ところが彼は素直に喜ばない。それどころか、信じることが出来ないでいるのです。彼は祭司です。祈りについて人に教えてきました。祈りが聴かれることを人に教えても来ました。ところが実際に、「あなたの祈りが聞き入れられた」と言われた時に、それを信じられないのです。
わたしたちは神の御言葉を聴いています。しかし、なかなか本当には受け入れてはいない。祈ってはいる。しかし、信頼してはいないのではないでしょうか。ザカリヤと同じです。自分の持っている30センチくらいの物差しで地球の長さを測るようなことをしているのです。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。不信仰なのです。
神は、天使を通して「あなたの祈り、あなたの願いが聞かれた」と言われました。神は、ザカリアだけでなく、わたしたちの祈りを聴いて下さいます。祈りがすぐに聴かれる場合もあるでしょう。若い時代から祈ってきて、晩年になってからかなえられることもあります。本人はもうあきらめてしまっている。祈っていたことさえも忘れかけてしまっている。しかし、神はわたしたちの祈りを忘れないで、聴いて下さるのです。わたしたちの祈り、拙い祈りでも、神は無視なさいません。祈りは積み重ねられて、やがて成就していくのです。わたしの家族を救ってください。わたしに助けを与えてください。長い間、積み重ねられた祈りを、神は時至って聴いてくださいます。真剣に捧げられる祈りは、必ずやがて聴かれます。このことを確信して歩んでまいりましょう。