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第45回 イチジクの木の下にいた時

聖書=ヨハネ福音書1章43-50節

その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」

 

 この聖書個所からは多くを学ぶことが出来ます。証しについて、牧会的な対話についても学ぶことの出来る大事な個所です。しかし、今回はこのところから、一人の人に注がれる神のまなざしについてお話ししたいと願っています。

 ここに、「ナタナエル」という人が登場します。あまり有名な人ではありません。性格的にも問題を抱えていた人のようです。このナタナエルにフィリポという友人がいました。フィリポは、このすぐ直前にイエス様に出会って信仰に燃えていました。フィリポは友人のナタナエルを探して出会います。そしてナタナエルにこう言います。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちが書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。これはフィリポの証しの言葉です。フィリポのキリスト理解が明確に語られています。律法と預言者とは旧約聖書を指す言葉です。フィリポは、旧約聖書が指し示しているお方、つまりキリストに出会ったのだと語っているのです。

 旧約聖書全体は、キリストについての証言集と言ってよいでしょう。フィリポは旧約聖書が証しするメシア・キリストを待っていた人でした。そして今、そのキリストに出会ったと言って喜んでいるのです。このフィリポの証言は旧約聖書の正しい理解の道筋です。しかし、フィリポのこの証言に対してナタナエルは冷たく突き放します。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と。ナザレのような田舎町から大人物など出るはずはないという一種の偏見です。偏見に基づく食わず嫌いです。

 こういう人はたくさんいるのではないでしょうか。偏見・食わず嫌いを治すには実際に食べてもらう以外ないのです。議論はあまり意味がありません。フィリポが「来て、見なさい」と語ったのはすばらしい伝道方法でした。フィリポが彼の偏見をとがめ、理詰めで攻めたてたらナタナエルを怒らせただけでしょう。ナタナエルがイエスを知ることが出来たのは「来て、見なさい」という率直な言葉でした。人は理詰めで心を動かされることは少ないのです。

 そして、イエスの元に連れて行きました。主イエスはナタナエルを見ると、彼を高く評価します。「この人はまことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と。すばらしい迎え方です。半信半疑でやってきたナタナエルの警戒心がほぐれて、「どうして初対面の自分を知っているのか」と尋ねます。すると主イエスは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。

 「いちじくの木の下にいた時」は、ナタナエルにとって忘れられない時でした。人目につかず一人孤独でいたのです。人の中に出ていくことも出来なかった。独りで悩み苦しんでいた。それが「いちじくの木の下にいた時」でした。一人で悩み苦しんでいたナタナエルの姿を、主イエスが「見た、見ていた」と言われのです。

 ナタナエルは、びっくりすると同時にハッと気付きました。自分がたった一人で悩んでいた時、だれも見ていない、と思っていた時、自分を見ていたお方がいる。この方はただの人間ではない。そう受け止めたのです。「神の子だ」というのが彼の直感的な理解でした。イエスというお方は、自分が考え、行っていること、自分の歩み、自分の生涯を全部知っている。このような方は神以外ない。そう感じ、受け止めたのです。

 イエスの語られた「見る」は、じっと見詰めることです。わたしが何にも分からない時から、このお方・イエスはわたしに目をとめて、わたしを見詰めていてくれた。讃美歌21/11番で「母の胎に ありし日より あがないたもう 神の力」と歌います。母の胎と言うだけのことではありません。父母が生まれる前から、神は「わたし」の存在を見ていておられるのです。これが聖書が語ることです。わたしが意を決して教会に来るよりもズーと前に、イエスがわたしを見詰めていて下さった。だから、わたしはイエスの元に来ることが出来た。主イエスがこのわたしの生涯をはじめから見ていて下さった。自分をジッと暖かく見つめていてくださるお方がいる。ここから信仰が始まるのです。