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第47回 人はパンだけで生きるものではない

聖書=マタイ福音書4章1-4節

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

 

 この個所は、イエスが洗礼を受けた直後に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けた出来事が記されています。新共同訳の“霊”の翻訳の仕方はあまり感心しません。「神の霊」、「聖霊」、「御霊」ときちんと訳すべきです。ところで普通、神の霊がわたしたちを罪に誘惑することはありません。主イエスが今、受けておられるのは普通の誘惑ではありません。救い主としてのお働きが、どのような性質のものであるかを、はっきりさせるためのものといっていいでしょう。「もし、神の子なら」という神の御子、救い主であることが試されているのです。

 しかし、ここで試されている事柄は、実は決して救い主、イエス・キリストだけの特有なものではなく、わたしたち人間にも共通の誘惑と言っていいでしょう。わたしたちが何を大切にして生きていくのか、ということが問われているのです。わたしたちは、どのような姿勢で、どのようなことに注意して生きるのか。主イエスの受けられた悪魔からの誘惑は、わたしたちの生き方と深く関わっているのです。

 悪魔の誘惑は3回なされますが、基本的には1つです。悪魔がイエスに仕掛けたことは、イエスを父なる神から引き離すこと、イエスを十字架による救いの道から引きずり下ろすこと、と言っていいでしょう。まさに、イエスが救い主として立つための試みであったのです。

 最初はパンの誘惑でした。悪魔は「パンを神に求めよ」とは言いません。神を抜きにして、神に頼らずに、あなたは神の子としての力があるだろうから、自分の力で「石をパンにしてみろ」と誘うのです。罪は、どんな場合でも、神からの独立、神に背を向けるところから始まります。「力があるだろう。その力で石をパンしてみろ」。神に頼らずに、人の力で解決しようとするところで失敗をするのです。

 パンの問題は極めて日常的なことです。最も深刻な課題です。何を食べようか、何を飲もうかと言って、わたしたちは毎日悩みながら生きているのです。人はパン(食糧だけでなく、衣食住)なしには生き得ないことは言うまでもありません。パンを得るためには、膝を屈し、嫌な人の気持ちにも忖度し、つらさを味わうこともあります。涙なしにはパンを食べることも出来ない。必死になって生き、パンを得るために労苦します。

 しかし、主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある」と言われました。これは旧約聖書・申命記8章からの言葉を引用しての答えです。これは決して「パンなどいらない」と言うことではありません。パンは人が生きるために必要なのです。しかし、神の祝福なしには、パンも、パンによって生きるわたしたちのいのちも生活も虚しいものになるということなのです。

 パン(衣食住)が与えられるのは、神に信頼して生きるためです。人が労苦して手にするパンは神の祝福の結果なのです。パンだけに目を留めるのではありません。神の祝福抜きにしてのパンは、決して人を幸いにしません。どれほどのパンを集めても、生涯食べきれないほどのパンを集めても、それ自体では決して人を幸いにしません。人にパンが与えられるのは、神に信頼して生きるためなのです。神に信頼して生きる道こそ、まことの幸いな道なのです。