聖書=マタイ福音書4章5-7節
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
イエスは、洗礼を受けた直後に荒れ野で悪魔から3つの誘惑を受けました。この個所には2番目の誘惑の出来事が記されています。この誘惑は分かりにくいのではないでしょうか。これは「しるしを見せる誘惑」と言っていいでしょう。
悪魔は、イエスを神殿の屋根の上に立たせます。東京タワーやスカイツリーなどとは比べられませんが、それでも高所恐怖症の人だったら足がすくんでしまう高さです。エルサレムの神殿には絶えず多くの人たちが来て、最近完成したばかりの神殿の威容を仰ぎ見ています。人は豆粒のように見えます。下の群衆からは神殿の上に立つ人などは注目の的となります。
この「神殿の屋根から飛び降りてみろ」というささやきなのです。それと共に、悪魔は巧妙に「御言葉の保証」まで付け加えるのです。「あなたが神の子なら、神はあなたを守ってくれるだろう」と、詩編91編11節を引用して誘惑します。聖書の言葉を用いさえしたら信仰的であると考えるのは大きな間違いです。悪魔は自分の誘惑の言葉と聖書の言葉を巧みにつなぎ合わせて「聖書もこう言っている」と語るのです。一部の人たちがしばしば用いるやり方です。このような誤った聖書引用に惑わされないためには、聖書の全体を見渡すことの出来る教理の学びを必要としています。この試みの1つの意味は、神が本当にイエスを愛して守っているかどうか、実際に試してみろ、と言う誘惑なのです。神を試みることと言っていいでしょう。
この誘惑の大きな意味は、ユダヤ社会の中では「救い主の登場」としては実に有効と考えられる登場の仕方への誘いなのです。「ユダヤ人はしるしを求める」と言われています。目に見える具体的なものに動かされるのです。多くの人の注目の中で、イエスが高い神殿の屋根から飛び降りて、傷一つなく着地したら、まさにスーパーマンの誕生、新しいヒーローの誕生、と言えるでしょう。多くのユダヤ人たちに、力ある解放者の登場を鮮やかに印象づけるのではないでしょうか。民衆の拍手喝采を受ける道です。このしるしを見せる誘惑に対して、主イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われて、退けられたのです。
今日、キリスト信徒と言われる人たちの中にも、このような考え方をする人たちがいます。ある新興宗教団体がしているように超教派でテレビ番組を買い切って大々的な宣伝を行ったり、国技館や後楽園ホールを借り切って大々的な集会を行って、キリスト教の勢いを示してみたらどうか、と熱く語る人たちがいます。アメリカなどでやっていることでもあり、戦後すぐの時期、日本でも経験済みです。これらのことは「しるしを見せる」方法と言ってよいでしょう。
確かに、主イエスご自身、「しるし」と言われる多くの奇跡を行いました。しかし、それは人の目に見せるための宣伝ではありません。人々の救いのための具体的なみ業でした。神を試すためでもなく、宣伝のためでもありません。むしろ、主イエスの生涯は見栄えしない苦難のしもべとして、しるしを拒否することによって貫かれていました。
「しるし」は、基本的に不信仰だからです。キリスト教の信仰は、見ないで信じる信仰なのです。神の御言葉に信頼して生きる道です。わたしたちは、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」(Ⅱコリント書5:7)と記すとおりです。