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第49回 世の権力を握る道

聖書=マタイ福音書4章8-11節

更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 

 イエスは洗礼を受けた直後に、荒れ野で悪魔から3つの誘惑を受けました。その3番目の誘惑が記されています。この誘惑は「この世の権力による救済の誘惑」と言っていいでしょう。

 イエスは、「救い主・キリスト」としてこの地に来られました。イエスご自身、このことをしっかりと自覚しています。救い主としての歩みを始めるために、罪なき身にかかわらず、罪人の受ける「悔い改めの洗礼」を受けられたのです。このようなイエスにとって、この3番目の誘惑は最大の誘惑でした。

 悪魔は、イエスを高い山の上に立たせて、そこから見える街々の繁栄の姿を見せて言います。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と。たいへん魅力的な誘惑ですが、最も危険な誘惑でもあります。これは、古来からの権力者の歩んだ道です。民衆は多くの苦しみ…飢え、貧困、迫害、不平等、などの苦難を抱えて生きています。これらの苦難を解決する最も近道が政治的な権力を握ることだと考えられてきました。権力をめざす人たちも初めから悪行をしようと考える人たちだけではありません。苦しむ民衆をなんとか救済し、解放しようとして立ち上がるのではないでしょうか。

 しかし、いずれの解放者たちも権力を握ると、たちまち独裁に走り、人を謀殺し、戦争を引き起こし、腐敗し、前よりもさらに悪しき状態へと突っ走っていくのです。それは、この世の権力自体が深く悪魔的だからです。「街々の繁栄」とは物質的な繁栄のことです。この繁栄を得るためには、多くの謀略と策略、競争と戦い、富の収奪が必要なのです。悪魔に膝を屈することなくしてはなしえないでしょう。どのような政治的なスタンスに立っても、罪と悪の支配するこの世界にあっては、この政治的権力の悪魔性をしっかり見据えていかねばなりません。

 イエスは、救い主・キリストとなるに当たり、この悪魔との妥協の道をはっきり拒絶されたことです。イエスは「退け、サタン」と言われました。救い主としてのイエスの歩みは「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある」と言われました。これによって、イエスの救い主としての歩みは、悪魔に膝を屈して、この世の権力を獲得し、物質的な繁栄をもたらすような救済ではないということです。イエスの歩まれた道は、十字架の受難をもって罪の贖いをなし、神との真の和解をもたらす救いの道でした。受難のしもべの道でした。

 このようなイエスの救い主としての歩みは、なかなか理解されません。イエスの弟子たちさえもなかなか理解できなかったようです。今日のわたしたちも同じではないでしょうか。わたしはこの世の政治的な権力が不要であるとは考えていません。この世界の営みとして、政治的な権威や政治機構は必要です。経済的な不均衡をなくし、この世界に平和をもたらし、平和を維持するためには政治の力が必要です。しかし、それは「真の救い」とは異なります。政治的な権力は、あくまでも「この世の暫定的な解決」をもたらすに過ぎません。

 主イエスが、救い主としてわたしたちに与えてくださるのは、十字架による罪の贖い、それによる罪の赦しの恵みなのです。神と共に生きる道、永遠のいのち、と言っていいでしょう。この罪の赦しの恵みに生きるところで、人としての自由な生き方が出来ていくのです。