聖書=旧約聖書・詩編65編10-14節
あなたは地に臨んで水を与え、豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。あなたがそのように地を備え、畝を潤し、土をならし、豊かな雨を注いで柔らかにし、芽生えたものを祝福してくださるからです。あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。荒れ野の原にも滴り、どの丘も喜びを帯とし、牧場は羊の群れに装われ、谷は麦に覆われています。ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。
日本中、新型コロナウィルスの感染禍の拡大の中にあると言っていいでしょう。テレビをつけると、どのチャンネルでもコロナウィルスのことばかりを扱っており、気が重くなるのではないでしょうか。わたしは浜松で生活していますが、街中を出歩く人がめっきり減っています。
今は葉桜の季節となり、新緑が目にまぶしい季になっています。しかし、そのような中で特に、緊急事態宣言が出てから生活の困難に直面している方の叫びは重いものがあります。休業を余儀なくされたり、仕事が出来なくなり、生活費にも困窮する人たちが出てきています。その生活の叫びに耳を傾けながら、聖書に目を向けてまいりましょう。聖書の神さまは、わたしたちの生活を顧みていてくださるお方なのです。
今回は、「主の祈り」の4番目の祈りについて考えてまいりたいと願っています。「主の祈り」は、主イエス・キリストが弟子たちに「祈る時には、こう言いなさい」と言って教えてくださった祈りのお手本です。わたしたちはこの「主の祈り」に導かれて日毎の祈りをしています。
「主の祈り」の中に、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」という祈りの言葉があります。どういう意味の言葉、どのような内容の祈りなのでしょうか。実は少し前のことですが、日曜学校で「日用の」と言う言葉を「日曜日の」と理解していた子どもがいることが分かり、大笑いしたことがあります。「日用の」という言葉が、もう若い人たちには分からなくなっているのです。実は「日用の」と訳した聖書の言葉自体、意味が幾つか重なっているのです。「毎日の、明日の、必要不可欠の、大事な、…」というような広い意味がある言葉だそうです。全部の意味が含まれる言葉です。わたしたちの毎日毎日の生活に必要なすべてのものを与えてください、と言う切実な祈りの言葉だと言っていいでしょう。
わたしたちは、毎日、何を食べ、何を飲み、何を着ようか、どこに住むのか、衣食住というものに、いつも悩まされています。生きていくための生活の苦労です。このような生活の糧を「今日も、明日も、いつも、与えてください」と、神さまに祈り求めなさいと、主イエスは教えられたのです。神はわたしたちの生活の糧、生きる手立てをも配慮して下さる神なのです。神さまに求めるのは精神的なことで、物質的なことを求めるのは不謹慎ではないかと考える方もおられるようです。しかし、イエス様は「かまわないのだ」とおっしゃいます。わたしたちの生活のこと、生きていくためのすべてのものを、神に求めていいのだ。父なる神にしっかり求めなさい、と言われるのです。
神さまは、わたしたちの生活の求めにしっかりと応えてくださいます。上記の旧約聖書・詩編のことばに記されているように、神さまはこの世界のすべてのものを祝福し、満たしていてくださいます。太陽を与え、雨を与え、わたしたちがこの世界で生きていくことが出来るようにしていてくださいます。これを神の摂理と言います。神は摂理の御手をもって、わたしたちの生活を守り、支えていてくださいます。ですから、わたしたちは日毎に、「父なる神よ」と呼んで、衣食住、生活に必要なすべてのものを、「今日も、明日も、いつも、与えてください」と祈り求めるのです。そして、この祈りの言葉を聞いて、応えてくださるのが、わたしたちの神なのです。