聖書=マタイ福音書5章21-25節
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。」
毎日、新型コロナウィルスの感染禍のニュースで疲れているのではないでしょうか。神経がいらだち、些細なことで人を差別したり、憎しみを増大させている状況です。このような時は、ゆっくりと聖書を読むよいチャンスではないでしょうか。
ここに記されているのは「山上の説教」の一部分です。ここにはイエスの弟子として十戒に従って生きる基本的な生き方が語られているのです。「殺すな」という最も大切な戒めを取り上げます。この戒めを人を殺しさえしなければ「よい」と理解するのなら、大部分の人は合格でしょう。しかし、イエスはファリサイ派の律法主義を批判するだけでなく、わたしたち一人ひとりの心の中を見ておられます。「自分は人を殺すような悪い人間ではないと思っているかもしれない。しかし、『殺すな』という戒めの本当の意味は、こういうことなのだ」と言われたのです。
わたしたちは、親しい兄弟に対しても怒り、「馬鹿」とののしります。これらのことが「殺すな」ということと深いかかわりがあると、イエスは語られるのです。兄弟だけではありません。わたしたちは何気なく、弱い者、邪魔に思える者を見下し、馬鹿にし、時に思い通りにならないと怒り、呪いの言葉さえ投げかけることがあります。わたしたちの心の内にある怒りです。そこを、イエスは見ておられるのです。
神は、人を神の形として造られました。小さな者も、弱い者も、すべての人が神の形としての命を持って生かされているのです。肉体的な命だけでなく、精神的、人格的な命・魂を持っています。そのゆえに人は貴いのです。怒って言葉を発し、隣人の人格を傷つけたり、見下げたり、差別したり、呪うようなことは、隣人の中に刻まれている神の形を傷つけ、破壊する行為です。イエスは、実際に殺人が犯されたかどうかではなく、このような「人の怒り」の中に殺人の根を見ているのです。
怒りは、決して他人ごとではありません。わたしたち自身が人を傷つける場合もあります。反対に、傷つけられる場合もあります。わたしたちは、互いに怒り、怒られるのです。このような怒りの中に生きるわたしたちに対して、イエスは速やかな和解を勧めています。どんな善行や宗教的な行為をするよりも、「まず行って兄弟と仲直りをし」なさい。「早く和解しなさい」と勧めているのです。
「和解」のためには、それぞれの立ち位置を取り替えて見たらどうでしょうか。自分の意見だけを突っ張っていたら解決しません。立場を交換してみたら、相手の思いも分かってくるのではないでしょうか。人に殴られた時、その痛みによって、殴られた者の痛みが分かるのではないでしょうか。人の痛みが分かるところから、和解が始まると言っていいでしょう。
「まず行って…」と、イエスは言われます。これこそ、イエスがわたしたちのためになしてくださったことです。「わたしたちがまだ弱かった時」、「まだ罪人であった時」、まずイエスがわたしたちのために、神との和解のためにご自身を献げてくださいました。イエスが先手を打ってくださいました。このイエスの先手としての十字架の犠牲によって、わたしたちは神の愛を知り、罪の赦しをいただきました。神からの和解の愛を受けたのです。
このキリストによる和解の愛に促されて、わたしたちも先手の愛に生きるのです。「そんなことが出来るか」と言う人もいますが、出来るかどうかの議論ではありません。信じて従うことが求められているのです。イエスは、わたしたちの中にある怒り、憎しみ、傲慢の罪を十字架につけて取り除いてくださいました。わたしたちの和解の愛は、この主イエスに従うところから始まってまいります。