聖書=マタイ福音書8章1-3節
イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
今、わたしたちは新型コロナウィルスの感染禍のただ中にいます。そのため、教会でも人と触れることなく、大きく距離を取り、マスクをして話しています。それだけでなく、礼拝もインターネットのライブ配信となっています。これは「バーチャル・リアリティ」に過ぎません。「ソーシャル・ディスタンス」、「新日常」という言葉が出てきています。わたしは、このような状況がこれから日常化することに多大な違和感、危機感を持っています。
上記の聖書個所では、イエスが、当時のユダヤ人が重い皮膚病と言われていた人にとっていた「ソーシャル・ディスタンス」をものともしないで乗り越えて、「近寄り」、「手を差し伸べてその人に触れ」て、その病をいやされた出来事が記されています。ここに、キリスト教信仰の交わりの真髄が明らかに銘記されているのです。教会は、このイエスのみ業の在り方を継承するのだと示されているのです。
新型コロナウィルスの感染禍の収束にはまだ相当の時間が必要でしょう。現実の命を守るためには、多くの譲歩と忍耐がなお求められるでしょう。しかし、やがて収束するでしょう。その収束後にも、教会の中で今日同様の「ソーシャル・ディスタンス」のような気分と慣習が続くとすると、キリスト教信仰の在り方が根底から覆されることとなるのです。
キリスト教信仰の在り方は、人と人とが実際に出会い、集会し、「密接する」在り方であると言っていいでしょう。イエスご自身が示された在り方なのです。幼子を抱き上げて祝福されました。多くの病める人に近づき、実際に手を差し伸べて患部に触れて、いやされました。しばしば泣き悲しむ者たちの傍らに座して語られました。徴税人・罪人と言われて、当時の社会から爪弾きされていた人たちと親しく交わり、食事を共になさいました。そして「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18:20)と言われました。
キリスト教会は、このイエスの語られたこと、なさったことを受け止めて成立するのです。教会の交わりは、一定の距離を取って離れて成立するのではなく、どんな人とも隔てなく密着し、互いに握手し、ハグし、身近に座して語り、慰め合い、励まし合う「交わりの共同体」なのです。その最も確かな証しがイエスの「最後の晩餐」を受け継ぐ聖餐の交わりなのです。
わたしがアメリカの教会の礼拝に出席して感動したプログラムがあります。「あいさつ」と訳すべきプログラムです。日本の教会ではあまりありません。左右前後の隣に座った人と「挨拶」を交わす時間です。「よくいらっしゃいました。おはようございます。お元気ですか。どちらから…?」と言った短い会話をして実際に握手する。それだけのことです。コロナ禍の中で、今、アメリカの教会で行っているかどうかは知りません。しかし、ここに教会の交わりの原点があるのです。実際に身を寄せ合って、言葉を交わして、交わりの手を差し伸べる。
このような信徒の交わりとしての教会の在り方が見失われてはなりません。主イエスが示している隣人に手を差し伸べる教会の営みが速やかに回復するように祈りましょう。互いに安否を問い合い、慰め合う共同体の経験の中に身を寄せることが出来るように祈りましょう。