聖書=マタイ福音書7章7-11節
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」
上記の言葉は、主イエスが弟子たちに語られた祈りについての教えの言葉です。「祈り」について、多くの人たちは誤解しています。「祈っても聞かれない」、「祈りは無力だ」と。しかし、祈りには力があり、祈りは必ず聴かれるのです。
わたしたちは今、新型コロナウィルス感染禍の中で、生きるための苦しみを味わっています。人は「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と、日常の生活の課題を抱えて思い悩んでいます。時には、生活に行き詰まり、前途に希望を失い、死を考えてしまうこともあるかもしれません。そのような時、「神に祈る」ことを試してみませんか。だれに見られることも、知られることもありません。費用もいりません。静かに、隠れたところで、「神さま」と呼びかけてみてください。
祈りは、信仰を持ってから始めるものではありません。むしろ、信仰を求めること、救いを求めることが、祈ることなのです。切羽詰まって、「神さま、助けてください」と叫ぶことが、祈りなのです。主イエスご自身が、このところで、神に助けを求め、救いの道を尋ね、ひたすらに門をたたき続けることが、祈りであり、求道なのだと言っておられるのです。その祈りの中で、神の恵みの賜物と神の応答が見えてくるのです。
自由学園の創設者の一人で羽仁もと子という方がおられました。この方が、こういうことを記しています。人生を生きていく中で、2つの動力が働いている。1つは「よし、やってみよう」という自分を励ます力であり、もう1つは「やったって、どうせ駄目さ」という、やろうとする心を押さえ込む力だ、と言います。この2つの力がいつも働いていて、多くの場合、「どうせ駄目さ」という力の方が勝ってしまう。そして、人の心は鉛のように重くなる、と記すのです。今のあなたは、どうでしょうか。
わたしたちも、主イエスの祈りの勧めの言葉を受けて、「よし、やってみよう」と思う。けれども、その反面「どうせ駄目さ」というネガティブな声も響いてきます。羽仁もと子さんは、「どうせ駄目さ」という心の声は、人の心の中に巣くうバイ菌みたいなもので、人の希望を奪う罪の心だと言います。しかし、どんなバイ菌でも日光に当てれば死滅してしまいます。罪の根を断ち、ネガティブな思いを断ち切るためには、神の光に当てることです。人の心が、神の光に照らされる時、「よし、やってみよう」と、奮い立って人生を切り開いていくのです。
神に祈ることは、先ず心を神に向けることです。神の光に照らされて、わたしたちの生きる道を尋ね求めるものとなるのです。神に祈るところでは、決して失望はありません。失望から希望へ、死から命へと方向が大きく変えられるのです。「神よ、あなたに祈る者とさせてください。わたしの抱えている悩みや課題をあなたに語り、あなたからの応えを待つ者とさせてください」と、祈り願ってみてください。このような祈りの中で、「どうせ駄目さ」というネガティブな生き方と決別して、「よし、やってみよう」と立ち上がっていくのです。祈りは無力なつぶやきなどではありません。わたしたちを力強く生かす根源的な力なのです。