聖書=ルカ福音書8章19-21節
さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
夫婦、親子、兄弟という自然の人間関係を大切にすることは大事なことです。この自然の人間関係……夫婦、親子、兄弟という関係の中で互いに助け合うことはすばらしいことです。助け合っていかねばならなりません。しかし、このすばらしい関係は同時に負い目ともなります。自由を奪い、重い負担を与え、憎しみに憎しみを加えるようなことも起こるのです。
それに対して、まったく異なる新しい人と人との関わりがあります。そのような関わりの1つに、キリストを中心とした交わりがあります。教会の交わりです。「キリストを中心とした交わり」は、他の多くの交わりと、どう違うのでしょうか。
イエスがガリラヤ湖畔で教えておられた時のことです。「イエスのところに母と兄弟たちが来た」。イエスの周りには大勢の人が集まっています。母と兄弟たちは、なかなかイエスに近づけないし声もかけられなかった。けれど、それに気付いた人がいました。「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」と知らせたのです。そっと知らされたのでなく、周囲の人にも分かるような大声で知らされたのではなかったでしょうか。周囲の人も「イエス様のお母さんや家族、身内の人たちが来ている」と分かったでしょう。
その知らせを受けて、イエスもまた周囲の人たちに聞こえるように大きな声で言いました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と。この言葉を聞いて、どうお感じになりますか。聖書を初めて読む人がこういう個所を読むと、イエスという方はなんと家族に冷たい人かと誤解しかねません。しかし、イエスのこの言葉は決して家族に対する冷淡さを示すものではありません。イエスは十字架につけられた時、苦しい息の中で、母マリアのことを配慮し弟子に託しているほどです。キリスト教は決して家族を軽視したり、見捨てたりする信仰ではありません。むしろ、家族を大切にすることを勧めています。
では、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」という言葉は、どういうことなのでしょう。1つは、イエスの言葉を聞く弟子たちの心の中の「ある思い」に対しての配慮の言葉です。イエスの家族が来たという声を聞いた人の気持ちの中には、家族に対するある特別な思いがあった。「イエス様の家族は別だ」と。イエスの言葉を聞いてイエスの弟子になっても、肉親の親兄弟のような親しい関係にはなれないという思い込みです。イエスを宿した胎、イエスに乳を飲ませた母親、一つ屋根の下で寝起きした兄弟たちは、弟子たちがどんなにイエスに親しくなっても限界があるのだ、と。
イエスは「そうではない」と言われたのです。もし、イエスの家族は特別だということになると、信仰者はどんなに真剣に信じても、親子兄弟という自然の関係には勝てないことになります。さらに突き詰めて言えば、ユダヤ人は別だということにもなるのです。血によるアブラハムの子孫には勝てないことになります。それでは新約の教会は成立しません。信仰よりも血のつながりが優先することになってしまう。イエスは決してそうではないと明言されたのです。キリストとの交わりに入るのは血筋によるのではない。ですから、イエスは大きな声でよく聞きとれるようにお答えになられたのです。
第2に、イエスはここでキリストの真の家族とは何か、何を構成要件としているのかを明らかにされたのです。それは「神の言葉を聞いて行う人たち」です。キリストとの関係は神の言葉を聞くことに始まります。キリストとの交わりは、親子であるか兄弟であるかにはまったく関係ない。ユダヤ人か異邦人かも関係ない。主イエスのこの言葉は当時のユダヤ社会では革命的な言葉でした。神の言葉が語られ、聴かれるところで、新しい神の家族、新しい交わり、新しいコミュニティ-が形づくられるのです。
神の言葉を聞くことが神の家族となるただ1つの条件です。キリスト教会とは、御言葉が聞かれ、御言葉に従って生きるところです。イエスは「神の言葉を聞いて行う人たち」と言われた。聞きっぱなしでなく、御言葉に従って生きることです。神がアブラハムに「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)と命じると、アブラハムは黙って従います。御言葉を聞いて行うとはそういうことです。御言葉を聞くとは聴覚の作業ではなく、心の作業なのです。心で聞いて、その御言葉に従って生きる。ここにキリストの教会、新しい神の家族の交わり、新しいコミュニティが形づくられていくのです。