· 

第74回 塩も塩気がなくなれば

聖書=ルカ福音書14章34-35節

「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

 

 主イエスは「確かに塩は良いものだ」と言われました。塩の例えは3つの共観福音書に共通して記されている大切な教えです。塩は、動物にとり必須で人間の体も塩が欠けると病気になります。主イエスは塩をもってキリストの弟子としての生き方を教えているのです。弟子として生きることは華やかな浮ついたものではない。塩は多くの重要な働きをします。しかし、大量には要らない。僅かでいい。一掴みでいい。主イエスは、塩のような働きをするごく僅かな人を求めておられるのです。

 塩の効用の第1は、味付けです。どんな料理にも欠かせないが少量で十分です。甘いものにも隠し味として欠かせません。不可欠ですが多すぎては塩辛くて食べられなくなる。少量で十分効果を発揮する。この塩の役割が世にあるキリスト者に求められているのです。時折、聞きます。日本ではキリスト者の数が少ないから社会にインパクトを与えられない、社会に大きな影響力を与えられない、と。しかし、人数が少ないから影響力がないのではありません。数の少なさではなく、塩の役目が果たされていないからではないでしょうか。

 塩の効用の第2は、ものを腐らせない防腐剤の働きです。野菜を塩漬けると漬け物になり長期保存が出来ます。料理の時よりは多く必要ですが、それでもそんなに大量には要らない。キリスト者がこの社会の中で生きる1つの役割は、腐敗防止の役割が求められているのです。キリストを信じる者は義なる神がいますことを知っています。社会の中で、義なる神のいますことを指し示していくことが、キリストの弟子に求められているのです。

 塩の効用の第3は、浄める働きです。日本では浄めとしての塩はよく知られています。仏式の葬儀の後で塩が配られます。キリスト教では葬議を穢れと理解しないので塩は配りません。しかし、レビ記2章13節には「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」と記されています。預言者エリシャは塩で泉の水を浄めました。キリスト者はその存在によって世界を内から浄めていくのです。積極的にこの世界を変革し、浄化していく働きです。

 塩の効用を見てきましたが、主イエスが語られたことは、「塩味を失うな」と言われているのです。「もう、あなたは塩なのだ」。キリスト者は塩とされている。このことが大前提です。主イエスは「塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか」と言われました。今日、多くの人は「塩気を失った塩」をほとんど知らないのではないでしょうか。わたしたちの周囲にある塩は精製塩です。精製塩は純粋な塩化ナトリュウムです。そのため、この言葉の意味が分からなくなっています。少々湿っても古くなっても塩気を失うことはほとんどありません。

 イエス時代の塩は死海から採ってきました。死海は普通の海水の6倍、27%の塩分です。人間も沈むことが出来ません。この塩分の中に多様な栄養分が溶け込んでいます。栄養価が高いということは多くの不純物を含んでいるのです。そのため、しばらく放っておくと塩気が抜けてしまう。もうこれはどうにもならない。塩として使いものになりません。肥料にもならない。塩分が幾らかでも残っていたら土が焼けて畑を駄目にしてしまう。道端に捨てる以外ない。これが「塩気がなくなる」ことです。

 塩気とは何か。信仰者として生きる意味をしっかり持つことです。塩気とは、キリスト者としての最も基本的な生き方をしっかり自覚することです。信仰者として生きるとは、神と神の国を追い求めて生きる生き方です。この世が持ち合わせていない神の国の価値観に生きることです。

 世の人々は、世の中のことに忙しくし、世の中の価値観に捕らわれて生きています。わたしはこの世の価値観が一切意味がないなどとは決して思っていません。すばらしい生き方をされる方もたくさんいます。しかし、どんなに優れた価値観であっても、根本的にはこの世の視座に立つ考え方なのです。この世の価値観に立つとは、神を人生設計の計算の中に入れないことです。神と神の国のことはこの世の人たちの思考の中には上ってこないのです。

 それに対して、キリスト者は「神、います」ということを基盤にしてものを考えるのです。神なしでは、この世界の存在自体が意味を失うと考えています。人生を考え、人生設計をする時に、神の存在を考慮に入れなければ意味あるものとはならないのです。神を信じる信仰者の塩味とは、神を基準にして生きることです。この生き方をもって一筋に生きることです。このことを見失ってしまうならば、キリスト者とは名ばかりで塩味を失ったものになるのです。