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第77回 からし種一粒ほどの信仰

聖書=ルカ福音書17章5-6節

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

 

 わたしたちは神を信じて生きています。圧倒的に多くの神を知らない人々の中で、神を信じる信仰を持って生きることは難しい大事業と言っていいでしょう。世間的にどのような大事業をする以上に、日本において信仰者として生きることは「大事業なのだ」と言っていいことです。

 とりわけ、新型コロナ禍の中でキリスト者として生き抜くことは困難なことです。どこにも出て行くことが出来ない。感染しないかと不安になり、精神的に疲れ果てます。経済的にも行き詰まります。そのような中で、神を信じて、福音を伝え、教会を建てていくことは、大事業であるという以外ないでしょう。この人生の大事業を遂行するためには、しっかりとした信仰が求められます。人間の力だけでは信仰者として生き抜くことは出来ません。

 使徒たちも主イエスに求めます。「わたしどもの信仰を増してください」と。使徒たちには大きな使命が委ねられていました。困難な時代の中で、福音を宣べ伝えて教会を建てていく使命です。教会は単なる建物ではありません。群れの形成です。互いに戒め合い、互いに赦し合う信仰者の群れ、信仰共同体を形造ることは人間的な知恵や努力で出来ることではありません。

 そこで、何よりも信仰が必要だと、自分たちの信仰の不足を覚え、信仰を増し加えてくださるようにと願ったわけです。わたしたちにもよく理解できるのではないでしょうか。信仰共同体としての教会を建てていく困難さがよく分かる。その困難を乗り越えるのは信仰以外ない。信仰者としての大事業は、人間的な知恵や配慮で出来ることではなく、信仰の力がなによりも必要だと直感し、「わたしたちの信仰を増し加えてください」と願ったわけです。

 それに対して、主イエスは「からし種一粒ほどの信仰があれば」と言われました。「からし種一粒ほどの信仰」とは、どういうことでしょうか。信仰に大小があるのでしょうか。「からし種」とは最も小さなものの例えです。1㎜よりも小さい、砂粒よりも小さい。吹けば飛ぶようなもの。しかし、その小さな種に「命」が宿っている。大小の問題ではない。生きた本物の信仰があればいいのだと言われたのです。

 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われました。これは不可能が可能になるということです。桑の木は大地に根を張ります。海に根を張ることなど出来ません。どう考えても無理なことです。その無理なこと、不可能が可能になると言われました。

 間違えないでいただきたい。この言葉は例えです。主イエスは別のところで、「山を海の中に移す」と言われました。同じ例えです。本当に命がある「からし種一粒ほどの信仰」があれば、互いに戒め合い、互いに赦し合う信仰共同体を形成していくことが出来るのだと言われました。使徒としての使命を全うすることが出来るのだと言われたのです。

 弟子たちは、自分たちが使命を遂行するためには信仰の力が不足していると考えた。しかし、主イエスは信仰は物量のようなものではないと教えられたのです。あなたたちで十分に出来るのだと励ましてくださったのです。わたしたちは信仰について誤解してしまいます。信仰を人間的な信念と誤解してしまう。「わたしは信仰も小さくて、何の働きも出来ません」とか「わたしは弱い信仰しか持っていません」と。これらの言葉には、この時の使徒たちと同じ、信仰についての大きな誤解があるのです。信仰は決して「一念岩をも通す」と言うような人間の信念の力でも力量でも才覚でもありません。

 信仰とは、自分の無力を悟り、神に信頼することです。信仰とは、信念の力や才覚ではなく、自分の無力を知って神に頼る信頼です。それが生きて働く信仰なのです。神は生きて働く信仰、神にのみ頼る信仰のあるところに、神の力を注いでくださいます。毛細血管が血液を人体の隅々までも送るように、細い水道管が水を豊かにそれぞれの家庭に送り出すように、神の恵みは神に頼る信仰を用いて働くのです。

 信仰は管のようなものと言っていいでしょう。神の力を通す管です。どんなに細くても、そこを通る神の恵みの力は無限です。毛細血管を通して暖かい血流が人体の隅々まで、末端までも行き渡ります。人間的な知恵や才覚で信仰の管を詰まらせてしまう時に、神の恵みの力は働きません。大事なことは自分の無力を悟って祈り求める、神に頼る信頼としての生きた信仰を保ち続けることなのです。それが「からし種一粒ほどの信仰」なのです。