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第80回 何に希望を置くのか

聖書=旧約・詩編39編13-14節

主よ、わたしの祈りを聞き/助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。わたしは御もとに身を寄せる者/先祖と同じ宿り人。あなたの目をわたしからそらせ/立ち直らせてください/わたしが去り、失われる前に。

 

 来る9月21日は「敬老の日」です。詩編39編からお話しします。ここには39編の終わりの部分だけを記しましたが、39編全体をお読みください。旧約聖書の中でも代表的な希望の信仰が物語られています。作者はダビデとなっています。2つに分けることが出来ます。前半は2節から7節、後半は8節から14節です。螺旋階段をゆっくり上るように上昇していきます。

 この詩の作者は、老齢で重い病気のようです。2-4節には詩人自身の状況が物語られています。重い病気にとりつかれ死期が迫っていることを受け止めています。ジッと耐えて沈黙しています。しかし、沈黙すればするほど耐え難くなります。内に押さえつけていたマグマが吹き出すように語り出します。3-4節「わたしは口を閉ざして沈黙し/あまりに黙していたので苦しみがつのり、心は内に熱し、呻いて火と燃えた。わたしは舌を動かして話し始めた」。たまったストレスが爆発するように語り出すのです。

 5節「教えてください、主よ、わたしの行く末を/わたしの生涯はどれ程のものか/いかにわたしがはかないものか、悟るように」。苦しみの中からの神への嘆き訴えです。どれだけ苦しめばいいのか。この惨めな状況がどれほど続くのか。高齢になり、病み、自分の体が思うようにならない、その結果、心も病み、つぶやきがでます。

 6-7節「御覧ください、与えられたこの生涯は/僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも/すべて空しいもの。ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし/だれの手に渡るとも知らずに積み上げる」。仏教的な無常観に近いと言っていい。自分の命がどんなに短いか、一生がいかにはかないかと嘆いています。

 しかし、詩人はただ一切は空しいと言って絶望的な雰囲気に浸っているのではありません。詩人は、空しさの中でも上を見上げています。8節「主よ、それなら/何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます」。苦しみの中でも、「主よ」と語ることが出来ています。これが信仰者の幸いです。信仰者は人生の無常を感じないのではありません。誰よりも鋭い感性を持って、人生の短さ、空しさ、不確かさを感じる。しかし信仰者には上を見上げることが出来るのです。これが信仰者の特権であり祝福です。神に望みを持つことが出来る。

 旧約における代表的な希望の告白です。人生の短さ、空しさ、不確かさを嘆く中から、上を見上げて信仰的なジャンプをしていると言っていい。「あなたは、わたしの希望の神です」と語っているのです。わたしは仏教の持つ凄みの1つは無常観にあると思っています。名誉、富、名声、権力、性的魅力、美しさ、どんなものを持ってきても吹き飛んでしまう。それらはすべて蜃気楼のようなもの、陽炎のようなものです。仏教はそれら一切を諸行無常と切って捨てます。

 しかし、キリスト教はそのような諸行無常の中で、なお本物の希望があると語るのです。本当の希望は、人生の短さ、空しさ、不確かさの中で、むしろ輝くのです。詩編注解を書いたデリッチという人は「わたしたちの人生には分からないことが一杯ある。わたしたちは前途を見通すことも出来ない。考えれば考えるほど憂鬱になる。しかし、わたしたちは無条件で神の御手に委ねることを知っている。神の約束に委ねる。これが本当の信仰であり、希望なのだ」と記すのです。

 希望の神を語った詩人は、少しずつ変わってきます。状況は変わりません。高齢で重い病にとりつかれ死期が迫っています。しかし、この詩の作者は、神に向かってはっきり信頼の祈りを捧げています。生きる意味を悟ったからです。神にある希望について語るのです。13-14節「主よ、わたしの祈りを聞き/助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。わたしは御もとに身を寄せる者/先祖と同じ宿り人。あなたの目をわたしからそらせ/立ち直らせてください/わたしが去り、失われる前に」。

 「あなたの目をわたしからそらせ」という言葉は解説が必要です。新改訳では「私を見つめないでください」と訳しています、これは神への祈りですが、わたしから目をそらせ見捨ててくれというのではない。罪を見ないでくださいということです。罪において自分を見るのではなく、わたしの罪を覆ってください、わたしの罪を赦してくださいという願いなのです。「立ち直らせてください」は意訳です。口語訳「わたしを喜ばせてください」、新改訳「私が朗らかになれるように」と訳しています。

 喜び、快活さ、健やか、と言う意味の言葉です。14節は「あなたの目をわたしからそらせてください。そうしたら、わたしは健やかになります」と訳せます。神が罪を赦してくださるところで、喜びと健やかさが回復するのです。「健やかさ」は肉体的健康というだけのことではありません。神に立ち帰ったいのちの健やかさです。詩人は今、神に立ち帰って永遠のいのちの希望に生きているのです。

 この詩は、罪が赦されて生きる幸いを語る希望の歌です。神からの赦しによる神との平安な交わりです。これこそ、喜び、快活、健やかな人としてのあり方です。神の前にあって、明るく朗らかに生きることが本当に希望を持った人の生き方なのです。高齢で、病み衰えても終わりではありません。神に立ち帰るところで、罪の赦しによる神との平安な交わり、健やかな永遠のいのちがあるのです。老いてもなお失われない希望です。