聖書=マタイ福音書9章35-38節
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
今回は上記の個所からお話しします。ここには、主イエスが「町や村を残らず回って」、ご自身の目から見た時代のユダヤの民衆の有様が記されています。伝道旅行の中で、イエスは、霊的な洞察力をもって人々の暮らし、その生活苦、悲哀を見て取られました。当時の民衆の混乱した悲惨さが記され、それが病み、弱り果て、打ちひしがれている、という状況でした。
形の上では「ローマの平和」によって、ユダヤも一応の平穏が保たれていました。経済的にもある程度の繁栄がもたらされていました。しかし、ローマ総督による収奪、ヘロデ王家による収奪が人々の生活を圧迫し、格差が増大していました。貧しい者はますます貧しくなりました。民衆の味方であるべき祭司たちは貴族化し、ローマ帝国への従属がはっきりしてきました。このため、盗賊や強盗が蔓延ります。愛が冷え、自己中心となります。ローマからの解放を謳って反乱が各地で起こっていました。人々の心身が病んでいただけでなく、社会全体が病に深く冒されていたのです。
主イエスは、その根源的な理由は「飼い主がいない羊のようだ」と見抜き、「深く憐れました」。「深く憐れむ」とは、イエスの心の動き、心の中の衝動を物語る言葉です。はらわたが引きちぎられるほどの痛みを覚えたのです。「飼い主がいない羊」は、導き手である牧者を失い、歩むべき道を見失い、保護者がいないため強力な獣の来襲に遭い、緑の牧場を失い、水飲み場をなくし、行き場を失い、不安に右往左往する羊の群れを指しているのです。このように弱り果て、打ちひしがれ、倒れている民衆の姿に対して、心が痛み、深く愛し、同情したのです。
このような社会の姿は、今日のわたしたちの国の社会状況とそっくりではないでしょうか。一応の平穏は保たれています。表面的には経済生活もなんとか回っています。しかし、「自助」という言葉のもとで、力ある者、知恵ある者、IT技術に優れた者たちによって収奪され、力なき者たちは弱り果て、打ちひしがれ、なぎ倒されているのです。助け合うべき世界は、自己中心・手前勝手により、力による収奪の世界になっているのです。これこそ、飼う者を失った羊の群れの姿、烏合の衆となった者たちの姿なのです。
主イエスは弟子たちに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。「収穫が多い」とは、どういうことでしょう。主イエスが語られた「収穫」とは、神への収穫です。「今こそ、神に立ち帰るべき時だ」ということです。弱者とされた民衆がリベンジすることではありません。なんとかこの世の力を付けて、才能を磨き、技術を身につけて勝ち組になることではありません。「神への収穫の時」、神に帰るべき時なのです。神の元でのみ、真の解決、まことの救済があるのです。
多くの人たちは、ここが理解できないのです。人々が困窮し、社会が病んでいます。その解決の道として、多くの人は経済力の回復、政治の方向性の転換、支配構造の変革などを模索するのではないでしょうか。主イエスの時代の多くの人たちも、そのように考えたのです。その結果、「我こそ、メシア」と主張する人々が出てきてテロやクーデターが頻発し、やがて紀元70年のエルサレム神殿の崩壊に至ります。このような道は、主イエスの目指す道ではありません。
「収穫は多い」と言われました。病み、疲れ果てて本当の救い、神の力による救いを必要とする人たちが「実に多いのだ」と言われたのです。そのために必要なのは、人々を神に導く「働き手」です。「収穫のための働き手」とは、民衆を神の元へと導く人のことです。頼るべき神を知らないで混乱している多くの人々に、まことの主なる神を知らせ、主なる神のところにこそ、緑の牧場があり、憩いの汀があることを伝えて、この主なる神の元に導く人です。
しかし、この働みき手が決定的に「少ない」と言われました。実は主イエス・キリストご自身が収穫のための働き人となってくださいました。このキリストの後に続いて、犠牲を払いつつ、多くの人たちに神へ立ち帰る道を提示する人が求められているのです。専門の牧師や伝道師だけのことではありません。すべての信徒がこの働き手となり得るのです。このような「働き手」が一人でも多く与えられるように、「神に祈り求めなさい」と語っておられるのです。病み、疲れ果てている時代の民衆を愛するキリストの切実な訴えです。