聖書=マタイ福音書11章28-30節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
現代に生きるわたしたちは皆、重荷を負って疲れ果てていると言っていいでしょう。上記の主イエスの言葉は、疲れ果てているわたしたちへの福音と言っていいでしょう。とりわけ、新型コロナウィルスの感染禍の中で、多くの人たちが心も体もクタクタに疲れているのではないでしょうか。自殺防止のための「いのちの電話」がなかなか繋がらないほどだと言われています。
家に閉じ込められ、夫婦や親子の関係にも深刻な悩みが生じています。オンラインでの仕事と言っても、いろいろなストレスが重なってきています。仕事が出来ずに廃業に追い込まれている人もいます。「Go To」キャンペーンで外出できる人は幸いです。どこにも行けずに疲れ、病む人も多いのです。重荷を負い、疲れ果てている人は、まことに多い。社会全体が疲れ切っているのではないでしょうか。
主イエス・キリストは、このような多くの人たちに「だれでもわたしのもとに来なさい」と招いておられます。「来なさい」ということは、「信じなさい」ということと少し違います。勿論、信じることは「主のもとに来る」ことでもあります。しかし今、信じた者も悩み疲れているのです。キリストを一度信じた人たちも、ここに来なければならないのです。
旧約聖書・詩編50編15節に、「苦難の日に、わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し、あなたはわたしをあがめる」(新改訳2017)と記されています。苦難の時に、神であるキリストを呼ぶ。これが、キリストのもとに来ることです。愛する一人娘が死に瀕した時、会堂長ヤイロは恥も外聞も投げ捨てて、主イエスの前に跪いて「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」(マルコ福音書5:23)と懇願しました。エリコの町に住むバルティマイという目の見えない物乞いの人が、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコ福音書10:47)と激しく叫び続けました。このように困窮の中から、切羽詰まった状況の中から、主イエスに叫び求めることです。
このようなことは、「困った時の神頼みで、嫌だ」という方もおられます。悩みの時に「神を呼ぶことを恥だ」と考える人もいるようです。「嫌だ」「恥だ」と思う方は、止めていて結構です。このように語る人は本当には困っていない。まだ余裕がある人です。本当に悩み、行き詰まった時は、恥も外聞もかなぐり捨てて、主に祈り求めるのです。「疲れた者、重荷を負う者」、悩みの中にある者は、「だれでもわたしのもとに来なさい」「わたしを呼べ」と言われるのです。
「休ませてあげよう」と言われます。この言葉に、主イエスの意志が表されています。ここで語られている「休み」は、身体と魂の完全な休息です。バカンスや休暇旅行も休みですが、どこかに不安があります。この「休み」という元のギリシャ語は、竪琴の弦を緩めるところから来ていると言われます。不安や責任感に押しつぶされそうな状況の中で、重荷や罪悪感で苦しんでいる状況の中で、極度に緊張している身と魂に、キリストが与えてくださる「憩い」なのです。心が安まり、ゆとりが与えられ、リフレッシュされ、元気づけられます。
竪琴などの弦楽器の弦を強く張りっぱなしでは、やがて切れてしまいます。緩めてあげねばなりません。そして、緩めるのは、再び、弦を張り直して、演奏するためなのです。主イエスの与える「休息」は、わたしたちが再び、心身共に新しくされて、活動するためです。
子どもが外でいじめに遭い、傷ついて帰ってきた時、ワーと泣いてお母さんの懐に飛び込みます。傷ついた子どもにとり、母の懐に飛び込んだら、そこが「安息の場」なのです。わたしたちも、身も魂も押しつぶされるような状況の中で、思い切って主イエスの懐に飛び込む時、主イエスはわたしたち一人ひとりをしっかりと受け止めてくださいます。わたしたちを受け止めて、安息を与え、心も体ももリフレッシュしてくださり、わたしたちの重荷を共に担い、再び立ち上がることが出来るように整えてくださるのです。キリストと共に、力強く生きる者となってまいります。