聖書=ルカ福音書18章9-14節
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
この個所は冒頭の言葉を読み飛ばしてはなりません。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」。これは福音書記者ルカの編集句です。この例えは、だれのための記述でしょうか。ルカ福音書が記されたのは紀元70年代です。キリスト教はユダヤ教から独立して異邦人伝道に進んでいます。ルカ福音書は異邦人読者を対象にしています。執筆者ルカの念頭にあったのはクリスチャンです。「うぬぼれ」や「人を見下す」ことが教会の中にも起こって来ていたのです。
主イエスは対照的な2つの祈りの姿を弟子たちに示しました。1つはファリサイ派の人の祈りです。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。この人は、他人と見比べて、自分の生活に満足しています。他の人々は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者だ。自分はそうではないと意識し、遠くにいる徴税人を見て「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と語る。他の人よりも道徳的に善い生活をしていると、神の前に胸を張って「感謝します」と言っているのです。
ファリサイ派は月曜日と木曜日に断食していました。旧約聖書には週2回の断食という掟はありません。この人は自分は聖書が命じている以上のことを行っていると自負しているのです。「十分の一」の捧げ物の規定も、律法では主要な小麦とブドウについてだけです。「全収入の十分の一」という規定はありません。この人の祈りは、自分は律法が定める以上のこと、他人と比べてはるかに善い道徳的生活をしていると、神の前に胸を張った自己義認の報告をしているのです。祈りとは言えません。
主イエスが示したもう1つの祈りの姿があります。徴税人の祈りです。「徴税人は遠くに立って」いました。神殿には幾つかの庭がありました。祭司が入る庭、イスラエルの男子だけが入れる庭、女性たちが入れる庭、その外に異邦人が入る庭と区分けされていました。徴税人は自分は汚れているという自覚があり、一番外側の異邦人の庭で祈りを捧げていました。
「目を天に上げようともしなかった」。他人と比較して自負するようなものがなかったからです。徴税人は周囲の人から強盗同然に思われていました。人の無知につけ込み、ローマの権力をバックにして金をかすめ取っていく仕事と見られ、胸を張れるような生き方ではなかった。徴税人として生きることは罪を犯す以外ない生活です。そのため「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る以外なかったのです。赦しを求める以外なかった。人と比較して誇るものはありません。彼に出来たのは自分の罪を認めて「罪人のわたしを憐れんでください」と言う以外になかった。赦しを乞う祈りです。そして、祈りは本来、赦しを求めるものです。
徴税人の祈りは惨めで憐れに映ったでしょう。ところが、主イエスは「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたのです。主イエスだけが語ることが出来た恵みの言葉、赦しの宣言です。赦しと憐れみを求める祈りが神に聞き入れられたのです。
祈りは、心から罪を認めて神の前に立つことです。「義とされる」とは、罪が赦されて神と正しい関係に入ることです。彼は徴税人であることを止めたのではありません。彼は元のままの徴税人です。この後も徴税人として生きざるを得なかった。しかし、罪を認めて憐れみを求める人の祈りを、神は聞き入れてくださいます。赦しの恵みがここにあるのです。
なぜ、このようになったのでしょうか。徴税人の祈りの背後に、キリストによる罪の償いととりなしがあるからです。罪を犯し続けなければ生活できない彼のために、キリストが十字架において償いをしてくださった。キリストが罪の贖いをし、とりなしていてくださるからです。そのゆえに、彼は義とされて家に帰ったのです。これは、この徴税人だけのことではありません。私たちも罪人です。日毎に罪を犯し続けて生きる。罪と縁切りできない。罪を犯しながら生きている。その中で、罪を認めて憐れみを求め祈るのです。キリストの赦しの恵みの中で生きてまいりましょう。