聖書=マタイ福音書13章44-46節
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
この聖書個所は、主イエスが語られた例え話です。思いがけなく宝物を見つけた人の行動を通して、信仰の祝福を得るための、わたしたちの行動の在り方が物語られているのです。主イエスは「天の国は」と語り出します。ここで語られている「天の国」とは、死んでから行くところではありません。「宝」「高価な真珠」に例えられているすばらしい世界なのです。それは、神を信じることによって与えられる恵みの世界、神と共に生きる新しい生活を表す言葉で、それを「天の国」と言われたのです。
この例え話の中の大切な言葉は、宝のありかを見つけた人が、「喜びながら帰り」という語です。この例え話は「喜びの物語」なのです。パウロは「 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16-17)と記しています。神を信じて,神と共に生きる新しい生活は「喜びと感謝」の生活です。キリストを見いだし、キリストに結ばれ、キリストと共に生きる恵みの生活です。罪が赦され、神の子とされ神の国の世継ぎとなり、永遠の命が与えられます。どんなに苦しいことがあっても、この祝福、この恵みは決して失われることはありません。これが「天の国」です。その故に「喜ぶ」のです。
このキリスト共に生きる恵みが、多くの人のほしがる「宝」、「高価な真珠」に例えられています。そして、その貴重な宝、高価な真珠が、さしあたり隠されていると言われています。主イエスは「畑に宝が隠されている」と言います。キリストの恵み・神の恵みは「隠されている」という一面があります。神ご自身が隠しておられるのです。だれにでも、すぐに分かるものではありません。「畑」はありふれたところです。いつも何気なく見て通るところです。
「畑」とは、福音、神の恵みが、その中に盛られている「聖書」と言っていいでしょう。あるいは、福音を宣べ伝えている「教会」と言ってもいいでしょう。キリストを信じて得られる幸いが、ここにあります。しかし、多くの人の目には隠されています。なんと多くの人が聖書を手にしたでしょうか。なんと多くの人が教会の門をくぐったことでしょう。高価な真珠を求める商人は、世界中を訪ね回っています。ところが、本物の宝、高価な真珠であるキリストを見いだした人はごく一握りの人に過ぎません。神が、この宝、高価な真珠を隠しているのは、熱心に求める人たちによって見いだされるためです。門をたたき続ける者には開かれるのです。探し求める者には見いだされるのです。
本物の宝や高価な真珠を見いだした人は、具体的な行動をとります。第1は、「そのまま隠しておき」ます。喜んで公表してもいいのでしょうが、この人はそうしません。「そのまま隠しておき」ます。それは1つには、圧倒的な素晴らしさ、その価値の故です。そっとしておきたかった。さらに、福音の宝、キリストを自分のものにする決断は、多くの人に相談して決めることではないからです。この宝は、他人のものではなく、「あなたのもの」だからです。この宝の尊さと素晴らしさは、あなただけにしか分からないのです。信仰の大事は、他の人と相談して決めることではありません。
宝を見つけた人の行った具体的な行動の第2は、「持ち物をすっかり売り払って」、「出かけて行って持ち物をすっかり売り払い」ということです。本物のすばらしい宝を得るために、今持っているものを売り払ってしまったのです。この男の人たちは、今まで無一文で生活してきたのではありません。それなりの資産を持っていた。しかし、この宝や真珠の前では「ガラクタ」に過ぎなかったのです。全部売り払ってしまった。これを「悔い改め」と言うことが出来ます。新しい宝の前では、今まで彼を支えてきたすべてのものが光を失ってしまった。彼は彼の生活を支えてきたものをすべて手放したのです。これこそ、真性の悔い改めです。
そして、彼・彼らは、すべてを投げ捨てて、神と共に生きる新しい生活を支えてくれる本物の「宝」、「高価な真珠」を買い求めたのです。聖書の中に証しされているキリストを見いだし、キリストを信じて、救いの恵みの中に導き入れられたのです。罪が赦され、義と認められ、神の子とされ、神との交わりの中で「喜びと感謝の生活」を味わっています。この恵みと祝福とは、決して失われることなく、永遠の命へと導かれていきます。
主イエスが、この例え話を語られたのには、目的があります。この例え話をすることによって、わたしたち一人ひとりに尋ねておられるのです。あなたは、わたし・キリストを本当に必要としているか、キリストの救いの恵みを手に入れるために、いったい何を犠牲にするかということです。あなたにとって、わたし・キリストを得ることが、どれほどの価値を持っているのかと尋ねておられるのです。そして、神の恵みと祝福を本当に手に入れるために、今、あなたの手の中にあるガラクタのような富やくず真珠を本当に売り払うこと、手放すことが出来るかと、問うておられるのです。