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第92回 ヨセフの信仰の服従

聖書=マタイ福音書1章18-25節

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

 主イエスの誕生を記念して喜び祝う「クリスマス」が間近になりました。今年、2020年はたいへんな年でした。新型コロナウィルス感染禍で、多くの人が深い悲しみと痛みを体験しました。このような理由の分からない苦しみの中でも、クリスマスはやってきます。暗黒の中で光を見る時と言っていいでしょう。この光を仰ぎ見て、苦しみの時を乗り越えていきましょう。

 上記の聖書個所は、クリスマスの主人公であるイエスの誕生を記しているところです。今回は、この個所からイエス誕生を巡る大事なことを、しっかりお伝えしておきたいと願っています。

 聖書には不思議なことが数多く記されています。その不思議の1つが、イエス誕生の物語です。イエスが処女(おとめ)マリアからお生まれになったことです。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と記されます。ヨセフはマリアと婚約し幸福な時を過ごしていました。しかし、この人生最高の幸福の時が暗転したのです。とんでもない事件に巻き込まれてしまいました。婚約してはいたが、夫婦の関係に入る前に妻となるべきマリアが妊娠してしまったのです。

 神がそのみ業をなさる時、人には前もって意味が分からないことがあります。ヨセフには、事柄がまったく分からなかったと言っていいでしょう。神がマリアを通してなさろうとしていることが分かりません。マリアの妊娠が分かった時、ヨセフは思い悩みます。思案します。そして、事を荒立てずに「表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。彼女を愛しており、辱めるに忍びなかったのです。

 「夫ヨセフは正しい人であった」とは、単なる正義漢という意味ではありません。思いやりのある人、配慮の出来る人であったということです。しかし、このような温厚なヨセフでも人間としての限界があります。この出来事が神のなさったみ業ということまでは見抜けません。人間は自分の経験からしかものを見られず、判断できないという限界を持っているのです。今日、わたしたちも、コロナ禍の中で先のことがまったく分かりません。

 このマリアの危機に際して、神が介入してくださいます。神は天使をもって語られます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と。マリアの妊娠は、決して人間的な男女の結合によるものではなく、神の霊、聖霊の働きであると説明したのです。この聖書個所では、マリアの懐妊は繰り返し「聖霊によって身ごもり」、「聖霊によって宿り」と記されています。これは、マリアの懐妊が超自然的な神のみ業であるということです。これが「クリスマスの出来事」なのです。多くの人は、なかなか信じられないでしょう。

 しかし、夫となるヨセフは夢の中で彼に語られた天使の声を受け止めます。マリアへの疑惑、思い悩みの一切を超えて、この天使の語る神の言葉に服従します。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」ます。合理的に、理性的に理解できたからではありませんでした。「神が語られた」、そう確信したからです。このヨセフの神の言葉への服従において、神がこの人間の世界の中に入って来て、世界の人々を救うという神の約束・契約と預言とが成就したのです。イエスの誕生というクリスマスの出来事を支えているのは、一方では神の契約への熱心であると共に、ヨセフの神への信仰の服従なのです。

 神の御言葉の約束は、信仰の服従を求め、人の服従によって約束・契約は現実となるのです。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」。ヨセフは、わりあい早く死んだと思われます。しかし、ヨセフのこの信仰の服従によって、彼は神の契約の担い手となり、イエス・キリストによる神の救いの出来事を、この地にもたらしてくれたのです。

 わたしたちには、分からないことが山ほどあります。「なぜ?」と考え込んでも、すぐに解答が見つからないことも多々あります。しかし、その中で、わたしたちは神に導きを求めるのです。神の語られた言葉を求めて、聖書を読み、教会の礼拝に集ってみましょう。これが「クリスマス」です。神の言葉に聴き従うところに、必ず光が見えてきます。わたしたちの人生の秘儀はここにあります。その生涯が長いか短いかではなく、神の救いの歴史をどのように担うか、にあるのです。神は今、わたしたちにも「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16:31)と約束の言葉を与えておられます。この祝福も、信仰の服従なしには与えられないのです。