聖書=ヨハネの黙示録22章20節
以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
今年、2020年最後のショートメッセージとなりました。今回は、ヨハネの黙示録からお話しいたします。新約聖書の中で、ヨハネの黙示録は特別な色彩を帯びています。紀元1世紀末、ローマ皇帝ドミティアヌスによる強烈なキリスト教の迫害下で記されました。ヨハネの黙示録は、この迫害の中で苦しむ信徒たちに、黙示文学の形式を用いて、間近に迫っている主の再臨と審判を待望するようにと促す手紙と言っていいでしょう。
上記の短い聖書個所は、その黙示録の最終部分です。冒頭に、「すべてを証しする方」と記されています。これは「主イエス」を意味しています。主イエスはこの直前で「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」と語っています。旧約が証してきたメシア、キリストであると言うことです。このお方は、処女マリアから生まれ、苦しみを受け、十字架において罪人の贖いをしてくださいました。その後、死者の中からよみがえり、天に上げられて、今、天におられます。
この天に上げられたお方・主イエスは、天に上げられる前に「わたしはすぐに来る」と約束されたのです。これが「再臨」です。そして今ここで、新約聖書の最後の叙述として「然り、わたしはすぐに来る」、そうだ、すぐに来ると確約しているのです。
教会は、この約束の言葉を受けて、長い間「主イエスよ、来てください」と祈り求めてきました。再臨の信仰は、教会の苦難と深く結びついています。教会の歴史において、再臨信仰が盛んになるのは迫害などの苦難の時代においてでした。黙示録6章では、迫害によって殺された多くの人たちの魂が祭壇の下から叫んでいます。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」と。もう我慢が限界に来ています。しかしなお、しばらく待つように命じられます。その中で、「主よ、いつまでですか」と問い、「主イエスよ、来てください」と叫び求めているのです。
今年、2020年、教会はたいへんな苦しみを味わいました。新型コロナウィルスの感染禍で、かつての戦時下の迫害の元にあった教会にまさるとも劣らないほどの苦難に出会いました。しかも、この苦難は教会だけに限られるのではなく、日本中の人たち、世界中の人たちが苦しみに遭いました。病む者を訪ねることも出来ず、親しい者の看取りさえ出来ないこともありました。仕事を失い、生活に困窮し、前途を悲観し死を選ぶような人たちも増えてきています。この苦難が、今もなお続いているのです。
先日、「今年(2020年)の漢字」というものがテレビで報道されました。清水寺の貫首が大きな筆で「密」と書きました。今年は至るところで「3密」(密接、密閉、密集)を避けるようにと言われ続けてきました。ソーシャルディスタンスを取るようにということで、教会は集会を中止したりして、ガラガラになりました。新型コロナウィルスの感染対策としては必要なことであったでしょう。しかし、実は「密集、密接」は、キリスト教会の命に関わることでもあります。礼拝に集うことは、まさに密集することです。「二人、三人集うところに、わたしも共にいる」と言われたキリストとの出会いを求めて密になり、手を握り合い、親しい交わりをするのです。互いに祈り、励まし合い、慰め合うのです。
礼拝の中心は聖餐式です。「集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美する」(使徒言行録2:46)。これが教会の交わりの中核です。復活の主イエスに出会って共に喜びの食卓を囲む祝祭なのです。ここにあるのは密接です。主イエスの最後の晩餐では、本来、1つの大きな種入れぬパンが手で裂かれ、一人ひとりに手渡され、「この杯から飲め」と言われて一つの杯からぶどう酒が回し飲みされたのです。聖餐式は、この密接な食卓の交わりの歴史的な連続なのです。
今年の教会の苦しみ、苦悩の根源は、この「密接」「密集」、「密であること」が奪われたことです。礼拝がオンライン化され、教会の交わりがバーチャルリアリティ(仮想現実)となりました。「密」のリアリティを奪われたことの本当の痛みについて、今日のキリスト教会の牧師たち、指導者たちは、どれほど深刻に認識し理解しているかどうか、分かっていないのではないか、そう思っています。そして、この苦しみは決して教会だけの固有の痛みと苦悩ではないと考えています。世界の苦しみなのです。世界は、本来、疎外ではなく、密であることを求めているのです。この世界の苦悩が、愛する肉親の看取りも出来ない現実に現れているのです。
このまま、教会の交わりがバーチャルリアリティ(仮想現実)で終わっていいのではありません。新型コロナウィルスの感染禍が速やかに収束して、「密の交わり」が回復されねばならないのです。互いに手を握り合い、身体を寄せ合い、親しく語り合い、隔てられることなく食卓を囲む交わりを回復させねばならないのです。「主イエスよ、来てください」。この言葉は「マラナ・タ」(主よ、来たりませ)いうヘブライ語(アラム語)で、聖餐式と関わって語り伝えられてきました。地上の教会の聖餐式と将来の天国におけるメシアの祝宴とが一つに結ばれているのです。涙が拭われて、主と密接して生きる交わりが与えられる時を祈り求めてまいりましょう。