聖書=詩編5編2-4節
主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て/あなたを仰ぎ望みます。
今回は、この詩編第5編からお話しします。皆さまは旧約聖書の「詩編」を読んだことがありますか。「詩編」は、1つ1つの詩が独立していますから、パラパラッと開いて、どの詩でも、読んでみたいところを、自由に選んで読んでよいのです。自分の今の気持ちで選択していいのです。
この詩編第5編は、「朝の詩」、「個人の嘆きの詩」に区分されています。この詩の作者である詩人は「わたしの言葉、わたしのつぶやき」と言います。人の前で、公の場所での祈りではありません。個人的な「つぶやき」なのです。例え、神に対しての祈りでも、公に語ることにはためらいがある。人に聞かせることの出来ない個人的なボソボソと語るつぶやきです。
実は、「つぶやき」という言葉は、新改訳聖書では「うめき」と訳されています。心の奥底から溢れてくるうめき声、心底にある神への抗議のような想いもあるのだ、と言えるのです。人には言えない切実な深い思いがあるからです。ここでは詩人の抱えている問題について具体的には語られていません。しかし、神に抗議するような、うめき、訴えざるを得ない深刻な課題を抱えているのです。
詩人は、きわめて深刻な課題を抱えて、朝の祈りの時に、神の前でうめき、つぶやき、神に訴えているのです。おそらく、詩人は、その前夜、思い悩み、輾転反側、眠れない時を過ごしたのではなかったでしょうか。わたしたちもまた今、この詩人と同様に、新型コロナウィルス感染禍の中で、深刻な課題を抱えて眠れない時を過ごしています。わたしたちも、つぶやいています。祈りの中で、ボソボソと嘆き訴えているのです。
わたしは、現職の牧師の時代、いろいろな教会の集会などに招かれることがありました。その時、牧師や信徒の方々のお宅に泊めていただくことがありました。そのような時、きれいなお部屋の中に屑籠がないことがあり、たいへん不便を感じたことがありました。ゴミの処置に困ってしまうのです。屑籠は、わたしたちが日常生きていくためには欠かすことの出来ない隠れた必需品です。このことに気付いてから、わたしは、家のあちこちに屑籠を置くことを心がけるようにしました。
そして、思うようになりました。わたしたちの生活には、屑籠のように、わたしたちの秘かな悩み、嘆き訴え、重荷にあえぐうめき声を受け止めて、ホッとさせてくれるような存在が必要なのではないかと。これこそ、生ける神の存在です。神は、わたしたちの人生の避け所なのです。わたしたちは、人に言えない深い嘆き、うめきを抱えて生きているのです。特に、現今、わたしたちは、コロナ禍の中で、精神的にも肉体的にも疲れ果て、生活でも深刻な危機の中にあります。疲労し、うめいています。この危機の中で、わたしたちは神に向かって、主よ、何故ですか、主よ、いつまでですか、と「つぶやく」のです。
神を、あたかも「屑籠」のように語ることは、不信仰、不敬虔だと言われかねません。しかし、神は生ける神として、多くの人のつぶやき、悩みや嘆き訴えの声を受け止めて、屑籠のような働きを果たしてくださるのです。わたしたちの不信仰なつぶやきの声、不条理を嘆く言葉であっても、祈りとして受け止めてくださいます。旧約の詩人は「助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります」と語るのです。毎朝、毎朝、うめき、叫んでいるのです。
屑籠は、中に投げ込まれる紙くずやゴミを黙って受けいれるだけで、外に投げ出しません。神は、聞いたわたしたちのうめき、悩みや訴え、疑念でも、周囲にまき散らすようなことはなさいません。穴の空いた屑籠ではありません。わたしたちの疑念や嘆きを、外に漏らすことはありません。それだけでなく、むしろ、キリストにある祈りとして受け止めてくださいます。
神こそ、わたしたちの心の奥底のうめきとつぶやきを受け止めてくださる最も優れたまことの屑籠であります。それだけでなく、そのうめきとつぶやきとを受け止めて、祈りとして聞き入れてくださるのです。詩編10編14節に「あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます」と記されています。神はわたしたちの日毎の苦しみと悩みのつぶやきを全部受け止めて、聞いてくださり、答えてくださいます。人間の作った屑籠には限界があります。しかし、神はわたしたちの悩みやつぶやきを全て担って、真剣に答えてくださいます。あなたも、今朝、「神様、……」と神に向かって、うめきの声をつぶやいてみませんか。それがあなたの祈りなのです。