聖書=イザヤ書42章1-3節
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
今回は、上記の旧約聖書・イザヤ書42章からお話ししましょう。この個所は、背景が分からないと意味が十分に理解出来ないでしょう。バビロニア帝国によって、ユダ王国が滅ぼされ、ソロモンが立てた壮大な神殿が崩壊し、イスラエルの民が遠く異邦の地バビロンに強制的に捕囚・奴隷とされました。紀元前600年代のことです。捕らえ移されてから何年も何十年も時が虚しく過ぎました。捕囚の地で奴隷として強制労働に就いています。仲間は次々と死んでいきます。解放される望みはまったく見えません。
「傷ついた葦」、新改訳では「傷んだ葦」と訳しています。「葦」は沼地に生える植物の葦で、直ぐに折れやすく、折れると使いものになりません。イスラエルの人々は、活力を失い、傷つき痛んでしまった葦のようです。「暗くなってゆく灯心」、新改訳では「くすぶる灯芯」と訳しています。ランプの油がなくなり、くすぶり消えかかっている状態です。これが、バビロンに捕囚となったイスラエルの民の実際の姿です。
このバビロンの地に捕囚となって呻吟しているイスラエルの民の姿と、今日に生きるわたしたちの姿とが二重写しになって見えてきます。国の指導者とされている人たちの無策により、コロナ禍の中で生きる活力をなくし、希望が見失われています。命の危機にさらされ、生活の手段が奪われ、わたしたち国民は「傷ついた葦」のように、消えかかって「くすぶる灯芯」のようになっています。指導者たちからの慰めの言葉は聴くことが出来ず、希望の道筋は示されることはありません。お先真っ暗です。
しかし、そのような絶望的な状況の中で、預言者の言葉が語り出されたのです。後に第Ⅱイザヤと言われる無名の預言者が、解放の希望を力強く語り出したのです。「わたし」とは、神のことです。神が預言者を用いて語り出されたのです。「見よ、わたしは、こうする」と。神が「わたしの僕」を選び出し、この「僕」がイスラエルの民を捕囚の地から導き出す、と解放が告げられたのです。そして、歴史上では、バビロニアが衰えて、ペルシャの王クロスによって、前538年捕囚民に祖国帰還が許可され、神殿再建も許されました。
しかし、この神の選んだ僕は声高に叫びません。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」のです。この神の選んだ僕は、決してこの世界の政治家や軍人ではありません。権力や権勢、政治力、経済力などによって人目につくような形で解放するのではありません。その意味で、この第Ⅱイザヤと言われている預言者の語ることは、歴史上のペルシャ王クロスでは決してありません。預言者の視線は遙か後の出来事を指しています。
それは、主イエス・キリストの到来です。主イエスこそが神の選んだ神の僕です。「彼の上にわたしの霊(神の霊)は置かれ」、罪と滅びの中から導き出され、解放されるのです。このお方は、密やかに、静かに、慰めの言葉を、わたしたちの心に語りかけてくださいます。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」。コロナ禍の中で生きるわたしたちは、権力者たちの声高な声によって慰めを得ることは出来ません。むしろ、日本の国の指導者は、葦が折られていることにも、灯芯がくすぶっていることにも、何も気づいていないかのようです。
もう一度、イザヤ書42章3節を口語訳によって朗読します。「(彼は)また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす」。「彼」とは、主イエス・キリストのことです。主イエスは、傷ついた葦を折りません。消えかかっているランプの火を吹き消すようなこともしないというのです。わたしたちの弱さを包んでくださるのです。傷をいやしてくださるのです。わたしたちの苦悩と悲惨の実情を知ってくださいます。わたしたちの傍らに座って、共に嘆き、共にうめき、語りかけてくださいます。
いや、そんな消極的なことではなく、再生し、立ち上がる道を示してくださいます。「真実をもって道を示す」お方です。立ち上がる道があるのです。傷ついた葦をいやし、ランプに新しく油を注いでくださいます。主イエスは、何の取り柄もないわたしたちに神の霊を与えてくださいます。神に希望があることを指し示し、神の信頼することを示してくださいます。また、わたしたちの弱い信仰を強くしてくださり、消えかかっている霊の火をいっそうしっかりしたものとして燃え上がらせてくださるのです。主イエスは、どんなに弱い、か細い信仰も消すことなく大切に守っていてくださいます。主イエスのもとに身を寄せてください。