聖書=マタイ福音書15章32-38節
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
この個所は「4千人給食」と言われるところです。似たような出来事を記した箇所もあります。少し前のマタイ福音書14章には「5千人給食」が記されています。パン5つと魚2匹で5千人以上の人々を養われた記事です。似た出来事ですが、人数が違うだけでなく、この「4千人給食」には、これから記す特別なメッセージが込められているのです。
イエスは、ガリラヤ湖畔のほとりの小高い山に登り、弟子たちに教え始めました。すると、大勢の「群衆」と言われる人たちが障がいを持つ人、心身を病む人たちを伴って集まって来ました。ここに記されているのは、弟子たちだけでなく、群衆と言われる多くの男女、子ども、障がいや病を抱えている者たちに、神の言葉を語られている途中での情景です。
イエスは話をしている途中で、弟子たちを呼び寄せて言われました。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない」と。イエスの話を聞くことを求めてきた人々です。幾分かの食糧は持参してきたでしょう。けれど、もう三日目になる。用意してきたものも底をついてきました。弟子たちも解散しましょうと提案したようです。しかし、イエスは彼らの困難な内情を見ておられます。このまま解散したら「途中で疲れきってしまうかもしれない」と言われました。
弟子たちは言います。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」と。後で人数のことが記されていますが、「群衆」は「女と子供を別にして」男だけで4千人もいたのです。イエスは、この人々を見て「群衆がかわいそうだ」と言われました。ここで語られている「群衆」とは、飼う者のなき羊のような弱い存在です。頼るべきものを持たず日々の生活にあえいでいる人たちです。病む者たち、障がいを担う人たち、幼児たちを抱えて生活に苦しむ人たちです。
「かわいそうである」と、イエスは言われました。「かわいそう」は、訳語として不十分です。「同情する」、「思いやる」とも訳せます。「はらわたから揺すぶられる」、「胸が痛む」、「内から突き上げられる」という意味の言葉です。居ても立ってもいられぬほどの気持ちの表明です。この「4千人給食」の出来事を貫いているのは、イエスの群衆に対する同情、痛みの思いなのです。多くの人の悲惨な状況をご覧になり、心の底から揺り動かされたのです。はらわたが千切れるようなイエスの憐れみと情愛が、この出来事を貫いているのです。
イエスが「パンは幾つあるか」と問うと、弟子たちは走り回って探しだし、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えました。イエスは群衆のお腹のことも心配してくださいます。イエスの想いは、わたしたちの心だけでなく、身体でなす生活のことも思いやってくださいます。パンの問題を軽視しません。弱く貧しく困難を抱える群衆の生活の必要を見て、心を揺り動かし、痛み、同情してくださるのです。
この「4千人給食」の出来事のもう1つの焦点は、弟子たちの活動です。イエスは、この出来事において、弟子たちを重く用いておられます。ご自分の切実な愛の想いを打ち明けます。弟子たちに相談して、弟子たちを用いて群衆への給食を行っていることです。イエスは先ず「弟子たちを呼び寄せ」て、「群衆がかわいそうだ」と語られ、どうするか相談します。弟子たちは走り回ってパン7つと魚少々を探しだしてきました。手元に集められたパンと魚を取って、イエスは感謝の祈りを唱えて裂き、「弟子たちにお渡しになり」ました。弟子たちが群衆に配ります。残ったパン屑を回収しています。弟子たちの奉仕の活動がいきいきと描かれています。
この「4千人給食」の出来事は、イエスの群衆に対する憐れみの御心から出たみ業です。しかし、イエスはその御心を弟子たちに伝え、弟子たちが走り回ってパンと魚とを集め、弟子たちの手を用いて群衆に配ったのです。弟子たちは、イエスの思いを受け止めて、恵みのみ業の実現のために大切な奉仕をしているのです。ここに、イエスの弟子たちの大切な働きの場があるのです。
今日、この聖書個所を読むわたしたちは、イエスの今日の弟子の一人ひとりです。わたしたちも、イエスの弟子として、飼う者なき羊である群衆に対して腹の底から突き上げるような想いをもって愛するイエスの御心を受け止めて、主のみ業のためになすべき奉仕に励むことが求められているのです。