· 

第109回 時のしるしを見ることができないのか

聖書=マタイ福音書16章1-4節

ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。

 

 イエスのもとに、ユダヤ教の2大グループ「ファリサイ派」と「サドカイ派」の人たちが一緒にやって来ました。この2つのグループは、普段、角突き合わせ、互いに反発し合っていた人たちです。それが一緒に来て、「天からのしるしを見せてほしい」と願ったのです。よほどのことです。

 彼らの言う「天からのしるし」とは、どういうことでしょうか。「しるし」と訳された言葉「セーメイオン」は、「前兆、兆候」を意味すると共に「奇跡」をも意味します。イエスが神から派遣された者であることの目に見える身元証明としての奇跡を求めたと言っていいでしょう。

 イエスは、活動の初期の頃、律法を教える教師・律法学者の一人と見られていました。しかし、しだいにファリサイ派もサドカイ派も「どうも、自分たちとは違うのではないか」と疑い始めました。イエスの周りには徴税人、遊女、罪人と呼ばれていたヤクザな人たち、病人、異邦人たちが集まりました。多くの課題を抱えた人々が集まり、イエスは病む者たちをいやし、奇跡を行い、何千人もの人を養いました。律法についての考え方でもファリサイ派と大きな隔たりがあることが分かってきました。

 そこで、放置できなくなり、両派で、イエスの教えの確証、イエスが神からの派遣であるとの保証を見せろと言ってきたのです。これに対するイエスの答えが、ここに記されているのです。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」と。

 第1に「あなたたちは、十分に『時のしるし』を見分けているではないか」と言われました。朝に夕に空を見て天候を正しく判断しているではないか。「しるし」を見る能力は十分にある、と言われたのです。そして第2に、あなたたちには判断能力が十分あるにも関わらず、イエスにおける神の来臨については、どうして判断できないのか、どうして無能力なのかと嘆いているのです。イエスにおいて、神の新しい時が来ているのです。新しい神の時、神の救済の時が始まっている。この「新しい時」の到来を見抜かねばならないのです。

 日本でも、「一葉落ちて、天下の秋を知る」と言われています。落葉の早い桐の葉が一枚落ちるのを見て、秋の訪れを察するように、僅かな前兆を見て、その後に起こるであろう大事をいち早く洞察することが大切です。主イエスの活動、新しい恵みのみ言葉、いやしのみ業の中に、神の到来の足音を聞き、新しい救いの恵みの歴史が始まっていることを受け止めねばなりません。主イエスを受け入れ、キリストに在る恵みの中に生きる者となりたいものです。

 「時」というものは、いろいろな色彩を持ちます。「時」(カイロス)と訳された言葉は、単数ではなく、複数「時々」です。新共同訳は「時代」と訳しましたが、「時代」はある一続きのものです。「時」の複数形が示すことは、「一続きの時代」ではなく、いろいろに区分けられた様々な時があるということです。さまざまな時の1つが「よこしまで神に背いた時代」です。新改訳は「悪い、姦淫の時代」と訳します。これが直訳です。今の時は、神に対して姦淫を犯しているような時代だ、ということです。神から離れた「姦淫の時」、背神・反神の強い彩りの中にいるのです。この時代の色に染まって人々の良心は麻痺してしまっています。

 わたしたちは、この「姦淫の時」が、やがて終わることを読み取らねばなりません。イエスは、このような神に背いた姦淫の時代にも、「ヨナのしるし」が与えられていると言われました。「ヨナのしるし」とは、神の主権によるまったく新しい救済の時が到来するというしるしです。ヨナが、神に選び出されて、彼自身は意に添わない不承不承ですが、異邦人の街ニネベで宣教し、大きな成果が与えられました。神が異邦人を愛して、主権的に恵みのみ業を行われる時です。異邦人が救われる新しい時代が来ているのです。

 福音が世界に宣べ伝えられて、新しい神の民が産み出される「新しい時」の到来を示すしるしを意味しています。「しるし」はないのではなく、くっきりと示されているのです。読み取る力がないと、示されていても見抜くことができません。わたしたちは、イエスの活動の中に「神の救いの恵みの到来の時」を見て、このお方を受け入れ、このお方に信頼して生きるものとなりましょう。