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第110回 「人の子」を問う

聖書=マタイ福音書16章13-14節

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

 

 マタイ福音書16章13-20節は、「ペトロの信仰告白」と言われるところです。マタイ福音書の頂点の1つと言える重要なところです。何回かに分けて記すこととします。今回は13-14節で、場所の解説から始めましょう。

 イエスは、12人の弟子たちを集めて、彼らに「使徒」という名を与え、彼らを連れてユダヤの内外を巡回旅行をしながら、3年ほど教育・訓練してきました。まもなく、イエスは十字架への道を歩み始めねばなりません。弟子教育のほぼ終わりの時期です。この旅行は今日の言葉で言えば卒業旅行、卒業試問とも言える出来事でした。

 イエスは、弟子たちを「フィリポ・カイサリア地方」に連れて行きました。この地方は、ガリラヤ湖から北へ約40キロです。ヨルダン川の水源近くで水が湧き、緑が豊かで、風光明媚なところです。わたしもイスラエル旅行をした時、ここに立ち寄り、その静けさ、冷気に感動し、ホッとして汗も引きました。しかし、周囲を見回すと異様な大きな石の遺跡群に驚きました。

 この地は、元「バニアス」と呼ばれ、古くから多くの異教の神殿があったところです。紀元前20年、ヘロデ大王は、ローマ皇帝アウグストスからこの地を拝領し、自分の名と皇帝の名を加えて「フィリポ・カイサリア」と改名しました。砂漠の多いユダヤの地ですが、日本で言うと軽井沢のような別荘地で、皇帝や領主たち、貴族や支配者たちの豪壮な別荘が林立しています。古くからの異教の神々の神殿と共に、新しくギリシャやローマの神々の神殿、皇帝礼拝の神殿が建っています。権力者と異教の支配を象徴する街でした。そのため、一般のユダヤ人はあまり立ち入ることはありません。

 イエスは、あえて、この地に、弟子たちを導き、彼らに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになったのです。「人の子」とは、イエスのご自分を指す「自称号」と言っていいでしょう。いずれ、どこかで「人の子」について採り上げます。ここでは「わたしのことを」と理解してください。

 「フィリポ・カイサリア」は、この時代の人間崇拝、自然崇拝、すべての偶像崇拝が集約している地であったと言っていいでしょう。皇帝が神としてあがめられ、この世の権力と財力が誇示され、自然の魅力と性的な事物が神々として崇拝されているところです。王侯貴族の邸宅が林立し、異教の神々の神殿が林立する光景は、人間のおごりと高ぶり、権力と財力の支配、偶像の圧倒的な力と支配を見せつける場所でした。

 イエスは、おごり高ぶった人間支配の力と偶像宗教の魅力の姿をしっかり示して、改めて真剣に弟子たちに「わたしのことを、なにものと思うか」と問うたのです。この時、弟子たちの目の前に立つイエスは、どんな姿だったでしょうか。きらびやかな貴族や権力者の姿、魅惑的な人物の姿形をしていたでしょうか。真逆の姿でした。みすぼらしく、貧しい、ただの人でした。

 讃美歌第1編121番の1,2節に、地上のイエスの姿が謳われています。

  「1 馬槽の中に うぶごえあげ  /  木工の家に ひととなりて

     貧しきうれい 生くる悩み  /  つぶさになめし この人を見よ。

   2 食するひまも うちわすれて /  しいたげられし ひとをたずね

     友なきものの 友となりて  /  こころくだきし この人を見よ。 」

 これは、決して事実をゆがめておりません。イエスのありのままの姿を描き出しています。旧約イザヤ書53章の冒頭に、「彼」、「この人」という表現で、前もってイエスのありのままの姿を描き出しています。「しもべの歌」と言われています。

 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」。

 12人の弟子たちは、目の前に示された大きなギャップの中で、なんと応えたでしょうか。困ったでしょう。何とか答えを見つけようとしました。旧約の偉人たちの中に答えを見出そうとしたのです。それが「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」、というものでした。

 イエスは、このような弟子たちの答えに満足しませんでした。今、聖書、福音書を読むわたしたちにも問われているのです。あなたは、どう応えますか。福音書を読む、わたしたち一人ひとりに、イエスは今も、「人の子(わたし)を何者だと思うか」と、お尋ねになっておられます。わたしたちは、この問いに応える責任があるのではないでしょうか。