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第111回 生ける神の子キリスト

聖書=マタイ福音書16章13-16節

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

 

 この箇所を含むマタイ福音書16章13-20節は「ペトロの信仰告白」と言われるところです。マタイ福音書の頂点の1つで重要なところです。ペトロの信仰告白の内容に入ります。

 「信仰告白」と言うと、誤解を先ず訂正しておかねばなりません。それは、信仰は個人的、内心の問題だという誤解です。確かに内心の問題ですが、信仰は内心から始まり、人の生活のすべて、生き方のすべてに関わるものです。「内密な心の内だけの問題」にとどまりません。80年ほど昔、戦前・戦中の時代、日本では第2次世界大戦で敗戦するまで、多くのキリスト者は「天皇とキリストと、どちらが偉いのか」という愚かな問いの前に立たされていました。日本のキリスト者は、戦後と言えども基本的状況は変わりません。神社や寺の行事・祭礼に取り巻かれ、その圧倒的な無言の圧力の中で生活しているのです。

 異教の神殿が林立する「フィリポ・カイサリア」における弟子たちと変わらない状況です。その中で「あなたは、わたしを何者だと言うか」と、問われているのです。今日、教会で信仰告白する時は、多くの兄弟姉妹が暖かなまなざしで見守る中、「我、信ず…」と信仰を告白します。しかし、一歩外に出ると日常生活は異教的環境に取り巻かれています。その中で「わたしは、こう信じて生きる」と、言葉と生活をもって応えていかねばならないのです。

 弟子たちは、イエスの最初の問いに対して口々に、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と応えました。「世間の人たち」のイエスに対する評価です。弟子たちは気軽に応えたでしょう。

 イエスは、改めて弟子たちに問い直します。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。イエスが弟子たちをこの地に導いたのは、これを問うためでした。弟子教育のすべてが、ここにかかっています。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。ペトロ個人の答と言うよりも弟子たち一同を代表しての告白です。口語訳「あなたこそ、生ける神の子キリストです」、新改訳「あなたは、生ける神の子キリストです」が適訳です。

 弟子たちの目の前に立つイエスの姿は、まことに貧しく、なんの権威も力もない、「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない」(イザヤ書53:2)一人の男でした。しかし、弟子たちは、このイエスの中に生ける神を見たのです。天と地を造られた全能の神が、身を低くされて「このお方」の中におられる。人となられた神を見たのです。ヘブライ語「メシア」ですが、ここでは「キリスト」が用いられています。キリストとは「救い主」を意味する言葉です。弟子たちは、イエスにおいて神を見、神が派遣した救い主を見いだしたのです。

 このペトロの告白は、イエスと共に3年余にわたって旅をしながら、その中でかねてから考えてきたことの結論です。イエスの語ったこと、聖書の新しい解釈、ファリサイ派やサドカイ派に対する戦い、貧しい者や病む者に対しての働き、女性や子どもの取り扱い、いやしのみ業、何千人の人たちを養われた出来事、嵐の中で救われたこと、多くのしるしを思い起こします。「この方は、どういう人なのだろう」と、考えてきた結論と言っていいでしょう。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。キリスト教信仰の最も大切な告白です。

 わたしたちは今、4つの福音書を読んでいます。福音書を読むことは、イエスの弟子たちの経験を「追体験すること」と言っていいでしょう。イエスの弟子たちは、イエスが何者かと、ずっと考え続けてきました。イエスの言葉を聞き、その行為を見て驚き、悩み続けてきた。そして今、ようやくイエスの中に「神を見た」と信仰の告白をしたのです。

 皆さん、どうぞ4つの福音書を繰り返しお読みください。ここから、キリスト教信仰を求める道が始まります。イエスの言葉と行い、その働きと十字架、復活をしっかりと見詰めてください。「イエスとは、どういう人だろう」と見詰めるところから始まるのです。弟子たちの経験に、自分の身を入れて、追体験するように読むことです。すると、しだいに「イエスの中に神を見る」ことが出来るようになっていくのです。