聖書=雅歌2章1-2節、4章16節
2章1-2節 わたしはシャロンのばら、野のゆり。おとめたちの中にいるわたしの恋人は、茨の中に咲きいでたゆりの花。
4章16節 北風よ、目覚めよ。南風よ、吹け。わたしの園を吹き抜けて、香りを振りまいておくれ。
数週間にわたって、だいぶ堅い話をしました。今週は少し変わって旧約の雅歌から「キリストの香り」についてお話ししましょう。
昔のことです。イースター(復活節)礼拝の前日、ある教会員が講壇の脇に大輪の白百合の花を活けて行かれました。その夜のことです。締め切ってある礼拝堂に入ったところ、百合の香りが礼拝堂の隅々までも漂っていました。いろいろな花の中でも百合の花が混じっていたら、すぐに分かります。白い清楚な姿と強烈な香りがその存在を示しているのです。
キリスト教では、白い百合の花は特別な意味を持っています。白百合の花は復活のキリストを意味すると言われています。そのため、イースター(復活節)礼拝の折りに、さらにキリスト教の葬儀の折などに、百合の花が活けられる習慣があります。このような伝統、習慣が、いつから、どこから始まったのかは、わたしも知りませんが、賛美歌の中では長い伝統ある理解のようです。そのような賛美歌の一端を紹介しましょう。
「 うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
イエス君の墓より いでましし昔を 」(Ⅰ:496)
「 わがたましいの したいまつる イエス君のうるわしさよ、
あしたの星か、谷のゆりか、 なにになぞらえてうたわん。
なやめるときの わがなぐさめ、 さびしき日のわがとも、
きみは谷のゆり あしたのほし うつし世にたぐいもなし 」(Ⅰ:512)
「 シャロンの花 イエス君よ、 わがうちにひらきたまえ。
よきかおり うるわしさを われに分かちあたえつつ。
シャロンの花 イエスよ、 わがこころに咲たまえ 」(Ⅱ:192)
これらの賛美の源泉は、旧約聖書の「雅歌」から来ているのではないかと思っています。雅歌には「百合の花」にまつわる言葉が記されています。「わたしはシャロンのばら、野のゆり。おとめたちの中にいるわたしの恋人は、茨の中に咲きいでたゆりの花」(雅歌2:1-2)。
雅歌は、元々古くからの恋愛の歌、恋の歌などを集めて紀元前三世紀頃に成立したと言われています。シャロンは、北イスラエルの美しい花咲く平野でしたが、神への反逆のためアッシリアに踏みにじられ荒廃に帰した地です。しかし、その地がもう一度回復する。バラや野の百合が平野一面に咲きほこり、輝きが回復する、と預言者イザヤは語りました。これを受けて、キリスト教会は、墓からよみがえったイエスを我が恋人・花婿に見立てて歌っているのです。イエス君は荒廃の中から、墓の中から野の百合のように立ち現れてくださった「シャロンの花」だと、このイエス君の香しさ、慕わしさを歌ったのです。
雅歌はさらに続けます。「その人は、わたしを宴の家に伴い、わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。ぶどうのお菓子でわたしを養い、りんごで力づけてください」(雅歌2:4-5)。花婿なるイエスの愛がわたしに及び、わたしを覆い、わたしを養ってくださいます。このイエスの愛を受けて、賛美歌は歌います。
「 シャロンの花 イエス君よ 病むこの身 いやしたまえ
罪を消すめぐみのつゆ われをきよめうるおして
シャロンの花 イエス君よ、 地のうえをおおいたまえ
地のひとのみなひれふし 汝を「主よ」と呼ぶまでに。 」(Ⅱ:192)
病んで、罪におののく、このわたしを愛して、いやし、罪を赦し、きよめて下さるようにと祈り求めています。いえ、それだけではありません。シャロンの花の恵みが、わたしをいやし、潤すだけでなく、「全地のうえを」おおい、すべての人の口が神の恵みをたたえることを願っています。これが、雅歌の愛の心なのです。
雅歌の中で、詩人はさらにこう歌います。「北風よ、目覚めよ。南風よ、吹け。わたしの園を吹き抜けて、香りを振りまいておくれ」(雅歌4:16)。この言葉は、キリストを信じた者たちが、この世の人々の中にあって、良き香りのようであってほしいという神の期待と励ましの言葉なのです。白百合の花とその香りは、先ずキリストから出てきます。そして、次ぎにキリストを信じる信徒もキリストのかぐわしい香りを周囲に広くもたらすものとなるようにと、「北風よ、目覚めよ。南風よ、吹け」と呼びかけられています。
香りは、どんなに狭い隙間からでも入り込みます。心を閉ざしている人たちの中にもキリストのかぐわしい香りはしっかり届くのです。どんな隅々までもその麗しい香りで満たしてしまいます。キリストを信じる者たちは、北風のような逆境の中でも、南風のような順境の時にも、どんな境遇の中であっても、キリストのかぐわしい香りを周囲に「振りまいてくれ」と語りかけられているのです。