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第118回 キリエ・エレイソン

聖書=マタイ福音書17章14-18節

一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。

 

 カトリック教会や聖公会などでは、礼拝の始めに「キリエ・エレイソン」という短い賛美を皆で歌います。「主よ、あわれみたまえ」という意味のラテン語の歌です。礼拝するとは、神のあわれみを求めることなのだということです。

 主イエスが変貌の山を下りると、「ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、『主よ、息子を憐れんでください』と求めました」。この人の息子がてんかんの発作で苦しんでいました。「度々火の中や水の中に倒れる」という事故にも会いました。親としてなんとかしてやりたいと願って、いろいろな医者にも行ったでしょう。どうにもならなくて、イエスの弟子たちのところにやってきました。当然、弟子たちも手を置き熱心に祈ったでしょう。ところがなおりません。父親は深い失望を感じたでしょう。

 この人は弟子たちには失望しましたが、キリストに直接会うことができました。真の信仰はキリストに信頼することです。この人の素晴らしい点は、弟子たちに失望しても、キリストに対しては素直な信頼を持っていたことです。多くの場合は、弟子たちに対して失望したら、キリストに対しても失望し、キリストから去ってしまうことが多いのです。

 しかし、この人は切実な思いをもってキリストに目を向けます。「先生」ではなく「主よ」と呼びます。「主よ、あなた以外に頼るものがありません。あわれんでください」と求めたのです。深い罪の赦しを願い、また心と身体がいやされることを願う時、わたしたちは主イエスに、「主よ、あわれみたまえ」(キリエ・エレイソン)と言う以外ないのではないでしょうか。

 病気のいやしをキリスト教信仰の中に期待するのは、御利益信仰だと言って拒否する人もいます。「わたしは病気のいやしのためには祈らない」と言う牧師もいることを知っています。けれども、キリストの福音とその救いは、魂だけでなく身体を含む総合的、全体的な救いです。キリストの支配は精神的な世界だけでなく、生活の全ての領域、日常的な全ての生活の中でも、イエス様は主として支配しておられると信じるのです。

 また復活の信仰は、魂に永遠の生命が与えられるだけのことでなく、体のよみがえりを信じるのです。キリストの救いは、全人格的、身体も心もひっくるめてが救いの対象です。体と心のすべてのいやしを求めることは、キリスト教信仰の中に正当に位置を占めるのです。いやされることを祈り求めることは、信仰の必然ですし、全く正しいことなのです。

 では、なぜ、「いやし」が問題になるのでしょうか。それは「いやし」に伴う危険な落とし穴があるからです。「いやし」だけが目的になり、最も大切な「信仰」が、人間的な悩み解決の手段となってしまうことです。その結果、いやされた時には感謝しても、いやされなかった時には、信仰が挫折したり、信仰そのものが失われてしまう危険があるからです。

 一時、熱心に求道しながらも、洗礼を受けてまもなく教会を去る方がよくおられます。その多くの場合、理由はここにあると思っています。祈り求めて幸いにいやされた場合には、病気が治癒したらそれ以上病院に行かないのと同じです。教会を去ります。「なぜ、教会に来ないのですか」と聞くと、逆に「行く必要がなくなってからも、行かねばいけないのですか」と応えられることもあります。また逆に、いやされない場合には失望して去っていきます。

 「いやされること」だけを求める信仰は、十字架が分からないことです。なぜ、神のみ子イエスが十字架を担われたのか、ということが本当に分からないで終わるのです。あるいは、ヨブの苦しみの問題が分からないといって良いでしょう。なぜ、義人が苦しまなければならないのかということです。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ記2章10節) というヨブの言葉が分からないと、本物の信仰ではないのです。

 今日、わたしたちの信仰の中にも、このような危険な落とし穴がないとは言えません。主イエスは「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」と言われます。真の解決はキリストのところ以外ありません。主イエスがみ言葉を語られるところに救いがあります。主イエスのみ言葉を聞く以外に救いはないのです。人を救うのは、キリストのあわれみのみ業です。主イエスだけが、悪霊を去らせ、人を内面から回復し、人を霊肉共にいやされるお方なのです。