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第119回 いのちのある信仰

聖書=マタイ福音書17章18-20節

そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

 

 この箇所は、主イエスが変貌の山から下りてきて直ぐに、てんかんの息子を持つ父親の切実な願いによって、悪霊を追放し、病をいやした出来事の続きです。この時代、多くの病は「悪霊の仕業」と考えられていました。主イエスは悪霊の働きを否定しません。今も悪霊は働いています。悪霊は人の心を捉え、縛り付け、身体まで拘束してしまいます。しかし、主イエスは神の言葉、福音を語り、この子の心を解放したのです。福音の言葉の宣べ伝えによって人の心が解放されます。これが「お叱りになると」と言うことの意味です。

 主イエスが、この人の息子をいやされると、弟子たちは尋ねました。「ひそかにイエスのところに来て」と記されています。堂々と聞くには気が引けた。「なぜ、我々にできなかったのか」ということは、弟子たちにとり大きな問題でした。彼らも使徒とされ、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能」を授けられていたのです(マタイ福音書10:1)。

 彼らは祈らなかったのではない。イエスがなさったよりも大きな声で熱心に祈ったでしょう。今までにも、イエスから派遣されて福音を語り、いやしをしてきました。ところが、今回はどのようにしても駄目でした。いやせなかった。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのか」とは、イエスの弟子としての資質が問われているのです。これは、決して直弟子たちだけのことではありません。今日の弟子たち、今日の伝道者たちも問われていることです。

 主イエスはこう言われます。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば……」と。たいへん有名な言葉ですが、その意味が誤解されてきました。「からし種一粒ほどの信仰」という言葉を、ある人は「小さな信仰、ちっぽけな信仰」と解釈しました。聖書では「からし種」を小さなものの代表として記しています。砂粒よりも小さく軽い、有るか無きかのような存在です。

 けれども、ここでイエスが弟子たちに語られた言葉の意味は違います。「からし種一粒ほどの信仰」とは、大小・軽重の問題ではありません。どんなに小さくても、その中に生命があるか、無いかということなのです。信仰は目に見えるものではありません。わたしたちは「目に見えるものによらず、信仰によって歩く」(Ⅱコリント4:7)のです。信仰は大小ではなく、その中に生命があるかどうかです。それが「信仰が薄いからだ」と言われた意味なのです。

 弟子たちは自分たちには信仰があると考えていた。そして、自分たちにも悪霊を追い出し、病をいやす権能が与えられている、と確信していました。だから、自分たちにも出来ると考えていたのです。ところが、主イエスはそのような弟子たちに対して、「不信仰だ」と言われたのです。自分は洗礼を受けている、伝道者として按手されている、だからいつでも神が共にいて助けてくれる、どんなことでも出来るはずだと考えた。これを「不信仰」と言われたのです。

 信仰の力は、確かに大きなものです。「山を移す」とさえ言われるような大きなことを行う力です。この言葉は「あの山、この山」を移すことではありません。信仰の働きは大きな事業を可能にするということです。しかし、それはその人自身が持つ信念のような力ではありません。本来、信仰とは人が固有に持つ何か特別な能力のようなものではありません。

 信仰とは、わたしたちをキリストに結ぶ帯のようなものです。わたしたちをキリストに結び、キリストとの結合によって、キリストが持つ恵みの力に生かされるのです。信仰の力とは、神が持っておられる力なのです。信仰は、神の持つ驚くべき力を招来させる管のようなものです。電気が電線を伝わって電源から送られてくるように、神の力は信仰の管を通ってわたしたちに至るのです。力は信仰にあるのではなく、力の源である神からくるのです。

 主イエスは、いろいろな機会に「わたしにつながっていなさい」と語られました。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(ヨハネ福音書15:7-8)と言われました。信仰の働きは自動的に働くのではありません。

 牧師の資格があるから、伝道者だから、と言って特別に力があるのではありません。キリストに結ばれ、キリストに活かされて働くのです。キリストにつながれていなければ、神の力は与えられません。日毎の信仰生活が問われます。生きた信仰生活をしているかが問われるのです。