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第123回 互いに赦し合うこと

聖書=マタイ福音書18章28-35節

ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。

 

 イエスがお語りになった「1万タラントン」の借金返済の例え話には後半があります。前半は返済不可能な1万タラントンの負債を負った家来を「憐れに思った」主人である王の一方的な赦し、借金帳消しの物語です。この借金・負債に象徴されているわたしたちのすべての罪がすべて完全に赦されているという福音の物語です。

 しかし、イエスの語られた例え話には後半があり、後半にこそ、イエスが語りたい大切な事柄が込められているのです。それは罪が赦された者は「互いに赦し合うこと」です。1万タラントンの借金を帳消ししてもらった家来とは、すべての罪を赦されて新しく人生を生き直すわたしたちです。キリストの赦しの恵みを受けて新しい人生を歩み始めたわたしたちです。

 この家来は「外に出て」行きました。どこから出ていったのか。主人である王の元からです。赦しの恵みを受けた主人の元から出て行った。罪が赦されたわたしたちが、その後どう生きるかということが、後半で物語られているのです。道の途中で、家来仲間に出会いました。人生は不思議なもので、膨大な借財を負っていた彼にも金を貸していた人がいた。家来仲間に100デナリオン貸していました。「100デナリオン」は、「1万タラントン」とは比較にならないが、それでもなかなかの金額です。今日の日本円にすると100万円程度です。ちょっとした金額です。

 けれど、この家来が主人である王から赦してもらった金額と比べると比較にならない。「何兆円」という返済不可能な莫大な金額と、せいぜい100万円程度です。この家来仲間も、かつての彼と同じようにひれ伏して哀願しますが、この家来は仲間を赦しません。「承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」。仲間を赦そうとせずに、牢獄に放り込んでしまったのです。

 この出来事を見た仲間たちは主人である王に、「事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた」わけです。事態を伝え聞いた王は激しく怒り、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と語り、「主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」のです。元の木阿弥になってしまったと言うことです。

 この例え話を語られたイエスは、いったい何を教えようとしているのでしょうか。わたしたちは自分が赦されたことを喜びながらも、信徒仲間の、身近な隣人の、あるいは家族の、ごく小さな罪や過ち、失敗をなかなか赦せないという事実です。クリスチャンと言われる人でも、家族や友人のホントに些細な失敗や過ちをなかなか赦そうとはしません。激しく怒る言葉を、しばしば聞くことがあります。赦されていながら、赦せないのです。「赦すことは出来る。だけど忘れることは出来ない」と言う言葉もよく聞きます。「根に持つ」のです。そういう言葉を聞くとき、わたしは思わず口から叫び出したい言葉があります。それは「あなたは、自分が1万タラントンの負債を赦された恵みを忘れてしまっているのか」ということです。

 確かに「赦す」ことは簡単なことではありません。たいへんな損失、大きな痛みを伴うことがあるでしょう。たとえ「100デナリオン」であっても、赦すことは難しいことです。赦すためには、自分の内に湧き上がる感情を押さえねばなりません。立場もあり、メンツもあり、利害も伴います。けれども、そこで、わたしたちは考えなければならないのです。「わたしは、1万タラントンの借金、生涯かけても償いきれない罪を、すべて赦されている」という大切な事実です。主なる神は、神の立場も、神のメンツもすべて投げ出して、独り子であるイエス・キリストを十字架につけて与えてくださったのです。

 キリスト者として生きることは、「この大いなる赦しの恵み」の原点に、いつも立ち返ることです。「1万タラントンの罪が赦されている」という恵みの理解に立つことです。そこでだけ、互いに赦し合うことの大切さを悟ることが出来るのです。最後に、教会の教父として尊敬されているアウグスチヌスの言葉を紹介しましょう。「人を赦さない者は、自分自身の手をもって、神の憐れみの扉を閉じる者だ」。これが、「主の祈り」の「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」という祈りの意味なのです。神の赦しの恵みに感謝して、互いに心から赦し合うものとして歩んでまいりたいものです。