聖書=マタイ福音書6章5-8節
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」
今週は「祈ること」についてお話しします。今はオリンピックの最中です。同時に新型コロナウィルスの感染禍が真っ盛りとなっています。長い間の規制で、多くの人が我慢できず、街中は人で溢れています。もう一度「スティ・ホーム」に戻りましょう。お上から命じられてではなく、自分の命と隣人の命のために、自宅で過ごすことを楽しみとしていきましょう。
外出の出来ない今こそ、神に祈る時です。祈りは、神を信じる人だけでなく、信じていない人、誰でも出来ます。試みに、心を静めて、「神さま」と呼びかけてみましょう。あなたの静かな神への語りかけを「隠れたところにいます神」はしっかり聞き届け、応えてくださいます。
主イエスは、こう言われました。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。ここに、祈りの秘訣が語られています。祈りは、決して公衆の面前で大きな声で人に聞かせるものではありません。神との静かな語らいです。内なる声で「神よ」と呼びかけ、内なる想い、内なる思念を神へと向ける。これが祈りです。
主イエスは、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入ること、そして戸を閉じて、父なる神に祈れと言われます。この「奥まった自分の部屋」とは、どこのことでしょう。日本の家庭事情によっては、奥まった部屋などはないかもしれません。これは決して家屋の場所のことではありません。「奥」とは、他の人に踏み込まれないところということです。心の奥のひそかな場所と言ってもいいでしょう。
すると、神は隠れたところで見ておられ、その祈りを聞いて応えてくださる、と主イエスは言われています。別に、神が「隠れんぼ」でもしているように身を隠しているわけではありません。わたしたち人間の目には見えないだけのことです。目に見えない神とは、実は「遍在の神」です。あたかも空気のように、どこにでも臨在しておられます。神は最も身近に、傍らに、わたしたちを包んで、臨在しておられるお方です。わたしたちをいつも包んでおられる神が、「隠れたところにいる神」なのです。
自分と素直に向き合うところから、祈りは始まります。人に見せるために外側の姿を整えるのではなく、だれにも見せられない自分自身の内側に目を向けることが大切です。祈りは、自分自身の心の内側に目を向ける時です。「奥まった自分の部屋」とは、自分の心の内側をさらけ出して、静かに神と語り合う場所なのです。
主イエスはこう言われました。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」。これは、ユダヤ教徒の祈りに対する痛烈な批判です。「異邦人は…」と語っていますが、主イエスの念頭にあるのはユダヤ教徒です。祈りの定刻になると、多くのユダヤ人は街々の辻に出かけて、多くの人が見ている前で、大きな声で、同じことを何度も何度も繰り返して祈るのです。これはまた、我が国日本の仏教信徒も同じことです。「百万遍念仏」という言葉があります。同じことを繰り返し繰り返し祈るのです。そこにあるのは言葉数に表される人の「熱心」です。
しかし、主イエスが求めていることは「真実」なのです。人に見せるための偽善的な熱心な祈りではなく、一人静かに心を開き、心の奥底から神に語る真実な想いです。祈りを整った言葉で捧げるものと考えてはなりません。罪に破れている自分の姿、神に頼る以外頼るべきものを持たない弱い自分、痛みと悩みの中から神に訴えるきれぎれの言葉。このような心の奥底から絞り出され、吐露される真実の言葉こそ、祈りなのです。
主イエスは、訥々と語られ、紡ぎ出される祈りに、神は「報いてくださる」「願う前から、あなたがたの必要なものをご存じなのである」と言われました。苦悩の中からの真実な心からの叫びとしての祈りが聴かれるのです。神は、祈りを聴き、祈りに応えてくださるお方です。このような神がおられることを信じることが、信仰です。主イエスが語られる「祈りを聴く神」に、心を静めて「父なる神さま」と呼びかけてみましょう。どこであっても、いつであっても、心を静めて、神を仰ぎ祈るところで、神とお会いできるのです。あなたも祈ることを始めてみませんか。