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第127回 平和を祈り求めよう

聖書=イザヤ書2章4節

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣(つるぎ)を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣(つるぎ)を上げず/もはや戦うことを学ばない。」

 

 まもなく8月15日が巡ってきます。先日、わたしは依頼されて、中部日本放送(CBC)のラジオから放送されている「キリストへの時間」で、8月15日(日)に放送される短いメッセージを収録しました。もし可能でしたら、8月15日(日)の早朝6時30分から15分ほどで放送される「キリストへの時間」をお聞き下さいましたら幸いです。CBCラジオ・1053㎑です。今回のお話しは、その放送の採録でお話ししたことに少し手を入れ、ほぼそのままの形で記すこととします。

 おはようございます。今朝は、ただ今、お読みいただきました上記の聖書の箇所からお話しさせていただきます。わたしはもう牧師を引退していますが、8月に説教を頼まれたら、必ず「平和」についてお話しすることとしています。「8月15日」は特別な日です。かつて日本がアジア・太平洋において、世界中を敵に回して戦い、敗戦をした記念の時です。この日は、平和を祈る日と言っていいでしょう。今年は、戦後76年となります。もう戦争の体験者が少なくなっています。そのため、戦争の記憶、敗戦の記憶が無いと言う方々が圧倒的な多数になっています。もはや敗戦の記憶が風化しているのではないでしょうか。

 わたしは、1941年(昭和16年)の生まれです。かろうじて敗戦の惨めさを直接に体験した世代に属します。まだ敗戦の傷跡が色濃く残っていた時代に少年期を送りました。復員という言葉が語られ、ラジオで捜し人が放送され、わたしの高校の教師は「予科練」帰りの人でした。今、お読みいただいた聖書箇所は、このような時代に、わたしが高校生を過ごした頃に初めて聖書を読んで感動したところです。

 ここには旧約の預言者イザヤの言葉が記されています。イザヤは紀元前700年頃に生きた人です。激しい戦いの中で、小さな国が右往左往して、国が敗れて捕囚になるという惨めさを体験しました。その中で、イザヤは、神の支配に目を向けました。神が支配されるところでは、「戦いはない」と確信したのです。イザヤは、「主は国々を裁き」と語ります。「裁く」とは、治める、支配するという意味を持つ言葉です。神が治め、支配するところでは、戦いのためのすべての武器が放棄され、戦いによって紛争を解決しない。戦いのことをもはや学ばないという平和の状態を望み見たのです。わたしはジッとこの文言に目を留めて、心躍る思いをしたことが鮮やかによみがえってまいります。

 改めて、わたしたちの国が、かつて犯した大きな戦争の惨禍、その惨めさを思い起こします。あの敗戦の惨めさと戦争の責任を、わたしたちはしっかり記憶することが必要だと思っています。忘れてはならないのです。第2次世界大戦は終わりましたが、それ以後も世界の中では戦争が絶えません。今も世界の中では戦争や紛争が続いています。

 今日ますます、世界中で、至るところで、戦争のための軍備、軍拡競争、核配備が激化しています。わたしたちの国、日本はかつての敗戦の記憶を忘却の彼方に押しやろうとしています。忘れて、世界の軍拡競争に巻き込まれて、軍備を整え、戦争の出来る国へと国造りを始めていると言っていいでしょう。このような時代の中で、イザヤの語った言葉は、どのような意味を持つのでしょうか。イザヤは夢を語ったのでしょうか。ファンタジーを描いたのでしょうか。決してそうではありません。

 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」と記されています。「主」とは、主なる神ヤハウェを意味します。主なる神が生きて、支配しておられます。この生ける神の存在を、人々は忘れているのです。神を忘れて、神を向こうに押しやって、自分勝手な欲望に生きているのです。欲望と欲望が激しくぶつかり合うところで争いが起こります。報復が起こり、憎しみが憎しみを生み、行き着くところが際限のない戦争です。イザヤが望み見て語ることは、すべての戦争は神の目から見たら「罪悪だ」ということです。神の前では、人を殺し合う戦争はあってはならないことです。

 イザヤは、主なる神が「多くの民を戒められる」と記されています。神が、多くの民、多くの人々の心に語りかけて下さるのです。神がわたしたちの心の中に住み、神の御心を示し、神の愛を満たしてくださいます。このところで、イザヤの言葉が生きてくるのです。神の与えてくれる「平和」があるのです。イエス・キリストがわたしたちを愛して十字架を担って下さいました。このキリストの十字架を仰ぐところで、憎しみに対して憎しみをもって報復するのではなく、互いに愛し合い、互いに支え合って生きる平和の道が開かれてくるのです。この平和を祈り求めてまいりましょう。