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第128回 心のロイヤリティー(忠誠心)

聖書=マタイ福音書6章24節

 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 

 上記の聖書個所から、信仰者にとって最も大切な「覚悟」についてお話ししたいと思います。最近では、コロナ禍という深刻な事情も踏まえて、在宅勤務が増え、さらに商店などの営業が激減していることもあり、従業員に他のアルバイトやサイドビジネスなどが奨励される時代になってきました。時折、名刺を頂戴して拝見すると、実に多種類の仕事を兼務している方が増えてきたようです。

 これはコロナ禍の中から生まれたやむを得ない事情と言えましょう。しかし、わたしは、実はこのような傾向は、最も基本的なところでいいことだと考えています。日本の伝統的な入社したら、その1つの会社に生涯「お仕えする」会社人間になるよりも、いろいろな多様な生き方、生きる道を模索することも大事なこと、必要なことなのではないかと考えています。

 上記の聖書の言葉は、一見すると、このような多様な生き方、あるいは兼業などに対しての批判の言葉とも理解されるかもしれません。決してそうではありません。この短い教訓のような言葉は「山上の説教」の一部です。主イエスが伝道旅行の途次、弟子たちに語られた言葉をまとめたものの中に出てくる箴言のような言葉です。

 主イエスの時代は、今日のような多様な生き方、多様な仕事、多様な職業があったわけではありません。多くの人は生涯一つの仕事、一つの家業、一つの生業に従って生きていました。実は、ここで語られていることは、このような世俗の仕事の問題、この世の務め、職のこととは直接関係しません。間違えないでほしいものです。

 ここで語られている「だれも、二人の主人に仕えることはできない」とは、兼職などの問題ではなく、わたしたちキリストの弟子たち、信徒の心の在り方の問題です。「神と富とに仕える」と言われている信仰者の心の在り様が問われているのです。わたしたちの心の姿勢、視線がどこに向いているかの問題なのです。「心のロイヤリティー(忠誠心)」の問題と言っていいでしょう。

 わたしたちは、神を信じ、キリストの尊い血による十字架の贖いによって「キリストのもの」とされました。ハイデルベルク信仰問答第1問答で「わたしが、わたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と告白されています。キリストだけが「わが主」なのです。このキリストへの「心のロイヤリティー(忠誠心)」が問われているのです。

 わたしたちは、神を信じ、キリストの贖いの恵みにあずかり、キリストのものとなったと言っても、なおこの世の中で生活しています。信仰者も、この世の一員として結婚し、子供を持ち、仕事をします。その中で、当然、この世の在り方が、わたしたちの生き方にも深く影響します。この世の在り方とは、富を求め、栄誉を求め、権力を求めるという生き方です。キリストを信じて生きる中でも、世俗の中で生きる時に、その心がキリストだけに向けられずに、むしろ世の中の在り方の中に埋没し、世の流れに流されてしまうことが多くなります。主イエスが、今、見ておられるのは、ここなのです。

 富を求め、栄誉を求め、権力を求める、この世の在り方が「主人」となるか。それともキリストの恵みに応えて、キリストを「主人」として生きるかということです。キリスト者もこの世の中で生きます。その中で、この世の魅力に取りつかれ、この世の魅惑的なご利益の虜になってしまうことが起こります。「富」は、この世の魅力の最大のものです。富さえあれば、栄誉も権力も手に入れることが出来ます。そして、この魅力に取り憑かれてしまえば、わたしたち信徒も再び、「世のもの」となってしまう。この世の魔力です。

 この世の魔力に取りつかれると、その結果は、「キリストのもの」であることは形だけのものとなり、しばしば「世の人」と同様になり、世の中の流れの中で押し流されてしまう生き方をするようになってしまいます。キリスト者として失格者となります。大事なことは、わたしたちがどこを向いて生きるかです。

 この世の魔力に取り憑かれると、礼拝に出席しても「心、ここにあらず」という状態になります。それが「二人の主人に仕える」という状態を指しているのです。キリストの恵みも分かるけれど、同時に「この世の生き方」「この世の価値観」にも目移りする。そんな状態になると、しだいに「キリストのもの」であることから身を退けてしまいます。主イエスは、このようなわたしたち信徒に、「覚悟」を求めておられるのです。「しっかりしろ」と。あちこちキョロキョロと眺めて生きるのではなく、しっかりとキリストを一筋に見上げて、そこに視点を定めて歩め、と求められているのです。