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第130回 他の町にも福音を

聖書=ルカ福音書4章42-44節

朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

 

 ここには「福音宣教」、伝道に対する主イエスの熱意と展望が記されています。現在はコロナ禍の真っ只中で、教会の伝道に対する情熱は萎んでしまっています。何とか群れを守ろうという守りの姿勢が基本になってしまっています。しかし、やがてコロナ禍も収束するでしょう。その時には、しっかりと教会の本来の在り方、伝道の使命に生きることを取り戻してほしいものです。

  「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた」と記されています。この時は、主イエスの伝道の初期の時代で、ガリラヤ湖畔のカファルナウムで伝道しておられました。安息日毎に会堂で教えていました。また、安息日が終わると病人を抱えた多くの人が押しかけてきました。

 主イエスはその人たちに御言葉を語り、慰め、悪霊を追放し、病をいやされました。そのため、疲れていました。そこで人里離れた淋しいところに出かけ、休もうとされたのです。主イエスは心身共に疲労し、力を消耗しておられました。御言葉を語り、伝道し、人をいやすことは精神的な重労働です。休みは、肉体の疲労を回復させるためだけのことではありません。神に祈り、神と交わり、神から新しい力を与えられるためでした。

 主イエスは人里離れたところに出かけました。一人静まる時を持つためです。このような行動は、主イエスのご生涯の中で何度となく繰り返されました。霊肉共にいやされ、回復される時を持つことは、主イエスだけでなく、今日の伝道者にも必要なことです。人は激しく働けば働くほど霊肉共に疲労します。その疲労をいやし、内なる力を神からいただかねばならないのです。

  ところが、カファルナウムの町には主イエスを求める人が大勢いました。「群衆はイエスを捜し回って……自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」のです。群衆がイエスに「自分たちから離れて行かないように」と願ったことは、主イエスを慕っているようにも見えます。しかし、ここにあるのは利己主義です。イエスを自分たちだけのものにしようと囲い込もうとしているのです。イエスのいやしの力を自分たちのところに囲い込んでしまおうという思いです。主イエスは、このような群衆の自分中心の思いを見抜かれます。

 そこで、主イエスは彼らにはっきり言われます。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」。主イエスが、今までに生涯かけてして来られたことは、神の国の福音の伝道です。主イエスが福音を語り、多くの人たちをいやして来られた恵みのみ業は、生ける神が今ここにおられる、神が生きて働いておられることの間違いのない明確なしるしなのです。

 主イエスは、ここで、ご自分の使命を明確にお語りになられます。それは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」ことです。一個所にとどまらないのです。そして実際にこの後、主イエスはカファルナウムの町を離れて、他のユダヤの諸会堂でも、ユダヤだけでなく、サマリアでも、異邦人の地と言われるところでも、神の国の福音を語り伝えらました。主イエスは、まさに生涯、伝道者・福音を宣べ伝える者として歩まれました。復活されたキリストの体としての「教会」は、この主イエスの伝道者としての歩みを受け継いでいるのです。

 この「ほかの町にも」という言葉の中には、ガリラヤ湖畔の街々だけでなく、ユダヤの全地、サマリア、さらに地の果てまでも、という全世界への視野が含まれています。復活された主イエスは、弟子たちに全世界に出かけて行っての伝道を命じられました。主イエスは弟子たちを用いて、今も「ほかの町々」への伝道を続けておられるのです。

 わたしたちは今日、この主イエスの伝道の延長線上で、それぞれの生活の地に遣わされた者として奉仕しているのです。これはいわゆる専門の牧師、伝道者だけのことではありません。すべての信徒がキリストの弟子として、それぞれの地に派遣されているのです。わたしたちは伝道者です。すべての信徒が、主イエスの福音伝道のみ業を受け継いで奉仕するのです。主イエスは今も働いておられます。キリストの伝道のみ業を共に担う使命に、わたしたち一人ひとりあずかっているのです。すべての信徒が、主イエスの伝道の働きを共に担う者として奉仕してまいりたいものです。