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第137回 「派遣された者」として生きる

聖書=マタイ福音書10章16-19節

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。」

 

 ここに記されているのは、主イエスが弟子たちを伝道に派遣された時に語られた言葉です。イエスを信じてキリスト者となった人は、主イエスによって「わたしはあなたがたを遣わす」と、この世界の中に「伝道者」として派遣されているのです。特別な人、特別な期間だけでなく、キリスト者はだれであっても「派遣された者」、ミッション・使命を持つ者なのです。キリスト者として生きるとは、「派遣された者」として生きることなのです。

 主イエスは、キリスト者を世に派遣することは「狼の群れに羊を送り込むような」危険極まることだと語っておられます。キリスト者が信仰に生きることは、何の問題もなく平穏な生活が送れるとは決して見ておられません。危険極まりない生活だと受け止めて、そのための幾つかの注意を語っておられます。狼の群れの中で生きるための知恵と処方箋と言っていいでしょう。

 第1の注意は「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」です。賢さと素直さです。イエスの弟子たちは、いつの時代でも少数者です。日本では、今日でも人口の1%です。圧倒的な未信徒の中で生きるのです。キリスト者に好意を持つ者は多くありません。むしろ、冷ややかに眺めたり、敵意をもって見られます。家族さえも迫害してきます。

 その中で生活するためには、単なる世的な賢さというだけではない、信仰から出る霊的な賢さ、先見性、思慮深さが必要です。その賢さに「素直さ」が伴うのです。うまく立ち回るこの世的な小利口さではなく、清潔さが大切です。金銭や品物に対する潔癖さも必要です。清潔さがないと、賢さがずるさになります。圧倒的な少数者として生き抜くことは難しいことです。その困難さの中で生きるためには、思慮深さと潔さ・清潔であることが秘訣です。

 さらに、主イエスは「人々を警戒しなさい」と言われました。新改訳では「人々に用心しなさい」と訳します。キリスト者は圧倒的な少数者です。欧米はキリスト教国でキリスト者が大多数と考えられています。大きな誤解です。欧米でも真のキリスト者は圧倒的に少数です。キリスト信徒は少数者として生きる覚悟をするのです。異国に生きるように警戒し、用心して生きるのです。ヘブライ書の著者は、旧約の信仰の先輩たちは「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(ヘブライ書11:13)と記しました。

 しかし、どのように警戒し、用心していても、迫害の時は来ます。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」。「地方法院」や「会堂」とは、イエスの時代を反映した世俗の権力者たちを意味する言葉です。「内に塩を持つ」キリスト信徒は、世の権力者にとっては危険な存在、邪魔な存在です。彼らは権力をもって迫害し、放逐し、処分しようとします。

 「わたしのために総督や王の前に引き出され」ることになります。「わたしのために」とは、ただ「キリスト者である」だけで、イエスが大祭司カイアファの前に、総督ピラトの前に引き立てられたようなことが起こるのだと言われました。権力者たちの前に引き出され、むち打たれるようなことが起きると言われたのです。今は無事平穏な時が過ぎています。そのため、現実感がありません。現憲法が曲がりなりにも有効にわたしたちを守っているからです。

 しかし、今から75年前、アジア・太平洋戦争が起こるしばらく前頃から、このイエスの言葉は現実になりました。キリスト者と教会は、イエスにおいて起こったことと同じ出来事を体験したのです。「天皇とキリストと、どちらが偉いか」と問われ、キリストの主権を告白した者は、投獄され、獄死した者もあります。今日、教会とキリスト者は、この歴史の事実を断じて忘れてはなりません。忘却の彼方に葬ってはならない。「忘れるなかれ(勿忘)」。

 主イエスは「彼らや異邦人に証しをすることになる」と言われます。このような迫害の機会こそ、派遣された者としての証しの場なのです。無事平穏な時には、キリスト者も時の流れの中に埋没し、「塩を持つ」ことを忘れています。しかし、危機に際して、自分の立つ位置について改めて問われます。「自分はキリスト者ではないか」と。これが大事なのです。我に返るのです。「内に塩を取り戻す」のです。

 この事態に立ち至ったキリスト者に対して、主イエスは「心配するな」と言われました。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。その時には、言うべきことは教えられる」からです。聖霊なる神が共にいてくださり、キリスト者を堅く守り、証しの言葉を与えると言われました。「我、ここに立つ」と語った宗教改革者ルターのようにです。わたしたち、派遣されている者であることを自覚したいものです。