· 

第142回 偽善に注意しなさい

聖書=ルカ福音書12章1-3節

とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」

 

 わたしたちにとって心すべきは偽善です。偽善は大きな危険性を持っています。イエスはファリサイ派の人の家から追い出されるようにして出て行くと、大群衆に取り巻かれました。すると「イエスは、まず弟子たちに話し始められた」。群衆に取り巻かれた時、弟子たちは得意になったかもしれない。「我々には人気がある、人々の期待がある」と。それに対して、主イエスは弟子たちに、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と話し始められたのです。

 「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」とは、ファリサイ派に騙されるなというのではありません。「ファリサイ派のパン種」とは「偽善」のことです。「偽善」は表と裏が違うことです。ファリサイ派の人たちは神を信じ、神のために生きているようですが、負いきれない重荷を人に負わせて、実際には自分中心に生きている。表面は信仰者らしく取り繕っています。周囲の人からはよき信仰者として見られています。祈りは神との交わりです。しかし、他の人に敬虔な者と見てほしいために定められた時間になると町の辻に出かけて、人に聞こえるように大きな声で朗々と祈りの言葉を唱えるのです。まさに演技しているのです。

 主イエスは、ファリサイ派の偽善がキリストの弟子たちの中にも入り込んでくることを警戒しているのです。パン種とは、パンを作る時に入れる酵母のことです。僅かの酵母菌で全体をふくらませます。ごく僅かな腐敗でも全体を変質させてしまう。ごく僅かと思っていたら全体が変質してしまう。それが偽善の恐ろしさです。キリストの弟子たちはこれから新しくキリストの教会を建てていかねばなりません。新しい神の民の群れとして形づくられるのです。その時には迫害も起こる。殉教も起こる。その時に、人前で演技するような生き方をしているのであれば、迫害に耐えることなど出来ません。

 では、どうしたらよいのでしょうか。キリスト者が身に付けるべき生き方は神を畏れる生き方です。真実を見抜かれる神の目を意識することです。宗教改革者カルヴァンは「コーラム・ディオ」という言葉を口癖としていました。「神の前で」という意味です。キリスト者の生き方は、神の目を意識し、神の前に生きるのです。しかし、人はここで間違ってしまう。神の目を意識して生きようとする時に、頑張ってしまう。立派であろうとしてしまう。そうではない。破れたままの姿を神の前にさらすのです。ハイデルベルク信仰問答114問で「それでは、神へと立ち帰った人たちは、このような戒めを完全に守ることが出来るのですか」と問います。答えは「いいえ」です。「それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたに過ぎません」と答えています。このことをしっかりと受け止めて、生きるのです。

 キリスト者は立派な人間、神の戒めを守っている敬虔な人間ではありません。この世にある間は神への服従をわずかばかり始めたに過ぎない。なお罪を抱えて生きる人間です。神の目を意識して生きるとは、演技して生きるのではなく、罪を抱えて生き、赦されて生きる姿をそのままに正直に生きることです。頑張って立派に生きようとするところで演技が始まります。それがキリスト者としての生き方を崩していくのです。「あなた、それでもクリスチャン」と言われるかもしれません。それでいいのです。いつも悔い改めて、赦しを求め続けて生きるのです。これが主の日に集まって礼拝する理由なのです。クリスチャンらしいから礼拝に集まるのではない。クリスチャンらしくないから、礼拝にしがみつくのです。

 礼拝に集うのは、わたしはこの一週間、立派に神の掟に従って歩んできましたと、胸を張るためではありません。そうではなく、「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」と、神の前に出るためです。「キリエ・エレイソン」という賛美をします。これが「赦しを求める祈りの歌」なのです。「主よ、あわれみたまえ。キリストよ、あわれみたまえ」と祈るのです。

 一週間の歩みにおいて多くの罪を犯してきました。この罪を赦してください。そしてもう一度、あなたのものとして生きる道を開いてくださいと祈り求めるのです。礼拝とは、罪を抱えて生きざるを得ないわたしたちが、赦しをいただいて「ありのまま」で生きることの出来る恵みの場なのです。礼拝は、本来、演技することを捨てる場です。教会では、頑張って背伸びする必要はありません。自己卑下する必要もありません。あるがままの姿で、主の恵みに応えて歩みを続けていくのです。