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第144回 受け入れられない救い主

聖書=ルカ福音書2章1-7節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

    イエスの誕生を祝うクリスマスは、日本では世間一般で祝われています。キリスト者でない人も祝いの時を持つようです。日本中がキリスト教の国になったかのような感じがします。しかし、皮肉なことに、実はクリスマスの聖書個所は「拒否されたキリスト」を語るのです。

 皇帝アウグストゥスは、紀元前27年から紀元後14年まで約40年間、帝政ローマの初代皇帝として君臨しました。住民登録は、支配者が税金を取り立て徴兵や労役を課すためのものです。ローマの初代皇帝として全領土で住民登録を実施したのはそのためです。

 そのような中で、1つの出来事がひそやかに起こっていました。「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」。ユダヤでは嗣業の地というものがありました。言わば本籍地です。ダビデ家の血筋の者はベツレヘムをその嗣業の地として定められていました。住民登録は、この嗣業の地、本籍地に戻って行わねばなりません。この住民登録のために、各地から来た人たちでベツレヘムの街はごった返していました。

 その騒ぎの中に、若い夫婦が到着しました。ヨセフと許嫁の妻マリアです。彼女は身ごもっていました。まもなく「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」ました。ひっそりと幼子が生まれた。ベツレヘムの町の人はだれひとり気付きません。無関心です。マリアから産まれた赤ちゃんには最低限の待遇も用意できませでした。まことに貧しいと言える状況の中で、地上の生を受けられたのです。これがキリストと呼ばれるイエス誕生の状況です。神の訪問がこのような形でなされたのです。

 なぜ、神はこのような秘やかな形でこの世界を訪問されたのでしょうか。救い主としてこの世界を救うのであったら、もっと違う形があったのではないでしょうか。人々の注目を集め、人気者になり、多くの人たちの力を結集して救い主として現れたらどうでしょう。政治の権力、軍事力を借りて、あるいは経済力を借りて、救い主になったらどうでしょう。

 しかし、神が罪人の救いをご計画になられたときから、神ご自身が選び定めておられた道があるのです。神の定められた救いの道は「信じる者を救う」道です。貧しく低いイエス、弱く力のない人の子イエス、低くなられたイエスの中に神を見る信仰が求められるのです。まことに貧しいイエスの中に神の到来、神の訪問を読み取る信仰が求められているのです。

 キリストの誕生は、世間の人が考えるような形での誕生ではありません。その身を危険にさらすようにしてこの世に来られたのです。誰にも知られないような形で、この世に秘かに潜入するようにして救い主は人とならました。弱い赤子として、殺そうとすれば殺してしまうことが出来る風前の灯のようにして、キリストは人となられたのです。救い主は、弱く、悩む人々と同じ立場に身を置くためでした。人々の中に入って、人々とまったく同じ者になりきろうとしました。そのために人目につかず、貧しさの中にひっそりと人となられたのです。

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。ベツレヘムの街にはこの親子を泊めてくれる家が一軒もなかった、とルカは記しています。象徴的な表現です。この一言は、その後の救い主の生涯についての福音書記者ルカの結論的な言葉です。この親子を迎え入れてくれる家はなかった。歓迎されなかったのだと述べているのです。これは誕生の時だけのことではありません。貧しく人となられたお方は、世の人々に簡単に理解され、受け入れられるものではありません。今日、クリスマスには大勢の人が誕生を祝っているかのように見えます。しかし、本当に貧しさの中に人となられたキリスト誕生の意味を考える人は一握りです。気付きにくい、判りにくい到来でした。

 今日、多くの人に福音を伝えても、なかなか受け入れられません。それは世の人たちが自己充足しているからです。自分たちは今のままでいい。経済さえ安定してくれたらそれでいい。そう考えて、神が与えようとしているまことの救いに気付かないでいます。あえて気づこうとしない。ヨハネ福音書はこう語ります。ヨハネ福音書1章11,12節「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。貧しく人となられた救い主を、その心の中に受け入れる人、信じる人は神の子とされるのです。