聖書=出エジプト記12章17-22節
さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。……一行はスコトから旅立って、荒れ野の端のエタムに宿営した。主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
2021年の日本は、海図なき歩みをしてきたようです。前年からの新型コロナウィルスの感染禍で、多くの人々は苦難の中を歩むことを余儀なくされました。感染者が増大し、病院に収容されることなく自宅待機を強要され、だれにも看取られることなく死ぬ人たちも数多くいたのです。職や仕事を失い、店を閉じ、収入の道が途絶えた人たちも多くいました。
この国家的な危機の時に、国の舵取りをするべき人たちは、自分たちの地位と権利にしがみつき、国会さえも十分に開かず、臭いものに蓋をして、病み痛む人たちへは十分な対応をしてきませんでした。衆議院の選挙が行われましたが、国の混迷は深まるばかりです。舵取りをする人たちが混乱しているだけでなく、国民自体が方向感覚を失っているようです。戦後80年で、この国は平和に生きる道から戦いへの道を歩み出そうとしているのではないでしょうか。この混迷の中で、わたしたちの歩む道は、どこにあるのでしょうか。
しかし、混迷している2022年の歩みも、なお神の導きの御手の中にあることを確信してまいりたいのです。上記の旧約聖書の言葉から、新しい年の歩みについて考えてまいりましょう。
「ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった」。出エジプトしたイスラエルの民を導いたのは「雲の柱、火の柱」でした。「雲の柱、火の柱」は神の臨在のしるしです。イスラエルの民は決して自分勝手に道を歩み出したのではありません。神に導かれていました。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」。民は「雲の柱、火の柱」が進むと進み、止まると止まったのです。
この時代、エジプトからイスラエルの民が目指すカナンに向かう道は大きく3つありました。1つは、地中海沿岸に沿ったペリシテの道。2つは、エジプトからシュルの荒れ野を通ってカデシバルネアに至るシュルの道。3つが、エジプトからアカバ湾の北端エツオン・ゲベルに至り、死海へと上っていく隊商の道です。地中海沿岸のペリシテ街道は最短の道ですが、神はこの最短の道に導かれなかっただけでなく、これら3つの道のどれにも導かなかったのです。
「火の柱、雲の柱」が導いた道は大きく迂回し、目的のカナンから離れていく方向でした。神は、カナンから逆方向、シナイの荒れ野に進む南方へと導いたのです。イスラエルの人々はいぶかしく思ったでしょう。帰るべきカナンの地の反対方向に導かれていく。その行く手は荒れ野と砂漠です。これから自分たちはどうなるのか。どうして食べていくのか。どうして生きていくのか。自分たちは、いったいどこに導かれるのか分からなかった。
けれども、神は何の計画もなしに彼らイスラエルの民を荒れ野に導いたのではありません。エジプトから持参した食料が尽きた時には、神は天からの「マナ」をもって40年の間、民を養われました。神はイスラエルの民の先々にきちんと食糧を用意をして備えていてくださいました。人には一寸先も分かりません。しかし、神に従っていく時、そこには神の用意、神の備えがなされているのです。神は歴史を支配し、導かれるお方です。先回りして備えしておられるお方です。後に、荒れ野の40年を回顧して、申命記の著者はこう記しています。「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:4)。
カトリック教会のある神父さんが書いた本の表題に「神は直線を描かない」とありました。いい言葉だなあと思っています。神は、A地点からB地点に行く時、定規で線を引いたような直線の道に導かないのです。神の導きは曲線を描くと言っていい。回り道、迂回路を歩ませます。道草にも思える道を、イスラエルの民は歩むことを経験したのです。
それには理由がありました。民の中にあるエジプト的なものを除き去ることです。出エジプトした民は、困難になるとすぐに「エジプトでは肉があった」と言ってエジプトの肉鍋を恋うて奴隷に戻ろうとする悲しい性(さが)がありました。荒れ野の40年の生活を通して、エジプトに戻るという思いが精算されのです。世代交代が進み、エジプトの記憶が断たれ、前進する以外ない新しい世代が生まれたのです。このために、神は長い時をかけたのです。
イスラエルの民を導いた雲の柱、火の柱とは何でしょうか。今日では神のみ言葉です。神のみ言葉が導くままに彼らは歩みました。最も困難な道を歩まされた。しかし、これが神が導かれた最善の道でした。求められているのはみ言葉に対する信頼と服従です。御言葉が命じたら1歩を踏み出すこと。神が進みなさいと言われたら、信頼して1歩を踏み出すことです。荒れ野に導かれる主に従うのです。み言葉が止まることを命じたら、静かに止まることです。神が示してくださるところにはマナの用意があります。主は備えしていてくださるお方です。神に信頼して信仰の歩みを続けてまいりましょう。