聖書=ルカ福音書12章8-12節
「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」
この個所は、「自分はイエスの仲間である」と「人々の前で言い表す」ことが主題となっています。主イエスが語られた信仰告白についての課題です。信仰告白は、いつなされるのでしょう。今日、普通に「信仰告白」の時と言えば、教会での洗礼式の時です。暖かな雰囲気の中で喜びをもって行われます。誓約の言葉を忘れても、間違えても暖かく包んでくれます。教会員の愛に包まれ、わたしたちは信仰の告白、信仰の言い表しをします。
しかし、信仰の告白は、いつでも暖かな愛に包まれてなされるわけではありません。何の準備もなしに、憎悪に満ちた状況の中で「自分はイエスの仲間です」と言い表すことが求められる場合があります。イエスが逮捕され大祭司の家に連行されました。ペトロは大祭司の家の中庭まで潜入します。すると女中が「この人もあの人と一緒にいた」と言ったのです。ペトロはとっさに打ち消し「わたしはあの人を知らない」と言う。信仰告白に失敗した。その後は坂道を転がるように「知らない、分からない」と繰り返した(ルカ福音書22:56-60)。ペトロは主イエスを裏切ろうとしたのではありません。不意をつかれた時、とっさに言った言葉が「わたしは知らない」でした。これはペトロだけの問題ではありません。とっさの時に、どんな答えを出してしまうか分からない弱さを、わたしたちも同じように抱えています。
逆に人生の土壇場で、主イエスによって「あなたは、わたしの仲間だ」と認められた人もいます。イエスと共に十字架に付けられた犯罪人の一人です。彼は仲間をたしなめて「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。主イエスはこの言葉を彼の信仰の告白と受け止めて、「よし、あなたはわたしの仲間だ」と認めてくださったのです(ルカ福音書23:39-43)。
どうして、こうなったのでしょうか。一方は失敗し、他方は土壇場でキリストの仲間と認められた。さらに不思議なことは、主イエスの面前で告白に失敗したペトロがもう一度、回復されているのです。主イエスは、このような信仰の言い表しにかかわることは聖霊のお働きによるのだと言われています。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」。皆さんは、この主イエスの言葉をどのように理解されるでしょうか。イエスの悪口を言うことと聖霊冒涜と、どう関わりがあるのかなど、いろいろな議論を言う人たちもいます。
ここで覚えていただきたいことは、人の救いは「聖霊なる神」の圧倒的な働きによるということです。聖霊の働きがなければ、誰も「イエスを主」と告白することは出来ません。救いの道は、聖霊がわたしたちの中に住んでくださるところから始まります。今まで霊的な意味では死んでいたわたしたちの心が聖霊によって造り変えられ、新しくされます。神は人の心を新しく造り変えて、福音を聞く心へと変えてくださるのです。
「人の子の悪口を言う者は皆赦される」。これは、ペトロの失敗を覆ってくださる御言葉です。ペトロと同じように、とっさの時、油断している時に、わたしたちも「キリストを知らない」などと口走ってしまうことも起こりえます。迫害や人々の憎悪に取り巻かれて、心弱くなり、信仰を持っていながらも、それを言い表すことに失敗する時もあります。
しかし、ペトロと同じように悔い改めて立ち戻る時に、主は「人の子の悪口を言う者は皆赦される」と言われました。ウェストミンスター信仰告白15章4節に「裁きに値しないほど小さな罪が存在しないのと同様に、真実に悔い改める者に裁きをもたらしうるほど大きな罪も存在しない」と記されます。信仰を言い表すことに失敗した時、それに気付いた時、その時こそ聖霊が働いておられる時と受け止めて、悔い改めて赦しをいただき、信仰者として歩み直すのです。
「しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」のです。聖霊を冒涜するとは、聖霊の働きを受けながら、聖霊の声を押し殺し続けることです。聖霊の働きを無視し続けることです。自分の生き方を固執し続け、その結果、聖霊が語りかけることを止めてしまうのです。悔い改めの心、信じる心が取り去られてしまいます。聖霊の働きを無視しつづけていくと、悔い改めの機会を失ってしまいます。それが「聖霊を冒涜する者は赦されない」ということです。福音を聞く機会に導かれた時に、人は自分の人生の大事な時として受け止めなければならないのです。