聖書=ルカ福音書13章22-25節
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
イエスは旅の途中で、ある人から尋ねられました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と。わたしたちにとっても心引かれる問いです。圧倒的少数者として生きているキリスト者が、心のどこかに持つ質問であると言っていいでしょう。問いかけた人は、見聞きしたイエスの言葉と御業に感動もした。しかし、観察して見ていると、イエスの弟子たちはそう増えそうもない。そこで、この人は救われる者はどのくらいいるんだろうかと好奇心から質問をしたのです。イエスは、その人に向かって「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。
どの世界でも「大きいことはいいことだ」という理解があるのではないでしょうか。就職希望でも、多くの人は大企業を希望します。小さな企業は合併して大型化のメリットを窺います。多くの人は、大きな広い立派な門から入ろうとしています。教会の中にも、大きいことはいいことだというような風潮が入り込んできています。
豊臣秀吉に仕えて茶道を確立したのが千利休です。キリシタンの影響を深く受けた人と言われています。千利休は茶室に「にじり口」を作りました。武士だからと大小の刀を持って威張っては入れません。「にじり口」で、刀を預け、体を折り曲げ、身をよじるようにして入るしかない。茶室の「にじり口」は「狭い戸口から入れ」との言葉から来ていると言われています。狭い「にじり口」を造り、たった二畳の茶室を造った千利休の「佗茶」の道は、黄金の大茶室を造った秀吉とは別の道であったと言う以外ないでしょう。いずれ衝突する以外ありません。
イエスは、救われる者が多いか少ないかの問いに直接答えません。「救われる人が多いか、少ないか」と、新聞記者が取材で横柄に、興味本位に尋ねるような問いに対しては応えません。「救い」は、自分自身に差し迫っている問題として受け止めねばならないのです。
イエスは、この質問者だけでなく、その場にいた一同に言われました。「狭い戸口から入るように努めなさい」と。救いを得るとは神の国に入ることです。神の国は、身を小さくし、低くしなければ入れない。ごう慢な姿勢では決して入れません。「努めなさい」と言われました。「努める」とは「骨折り励む」こと、さらに「戦え」とも訳せます。これは戸口に入るため、他の人を押しのけて自分だけがという意味ではありません。この「戦い」は自分に対する戦いです。身を小さくこごめる努力、身を低くする努力、謙遜になるための自我との戦いです。
イエスは、続けて「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多い」と言われました。どんなに願っても入れない場合もあるのです。戸口が広いか狭いかだけのことではありません。家の主人が「戸を閉める時」が来るのです。日本人の多くは無意識の内に、教会とキリスト教を軽視します。軽侮し、あなどるようなこともあります。教会は、いつでも歓迎してくれる。人生やりたいことをやって、年取ってからでも「間に合う」と軽く考えています。これはキリスト教を軽蔑すると言うよりも、むしろ自分の人生を軽んじているのです。
イエスは、入ろうとしても入れない場合があることを例えで示されました。「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」。救いのための戸口は狭いだけでなく、定められた時が来たら閉まってしまう。身をこごめて身を低くしなければ入れないだけではありません。時の限界がある。戸が閉められる時があるのです。
このことを、わたしたち、どれほど真剣に受け止めているでしょうか。死はいつ来るか分かりません。終末はいつ来るか分かりません。神の国の扉が閉じられる時があるのです。戸が閉まってもなお、コネを頼りに入れてもらおうと考える人もいるでしょう。閉じられた戸の外でわめく。表口があれば裏口がある。表が閉まっても裏口は開けてもらえるだろう。戸が閉められてもなんとか融通がつくだろうと考える。日本人的な甘えです。
家の主人は、「『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」と、イエスは語ります。神の家の主人は神です。神には表も裏もありません。コネも忖度も融通も通用しません。日本的な甘えは一切通用しません。閉まる時は閉まるのです。神は罪人を真剣に愛し、救いの道を開いてくださいました。独り子であるイエス・キリストを人とならせ、罪人の身代わりとする救いの道を開かれました。この神の真剣な愛に、真剣に応えねばならないのです。「狭い戸口から入れ」という神の真剣な愛の呼びかけに応えてまいりましょう。