聖書=ルカ福音書15章8-10節
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
ルカ福音書15章の2番目の例え話の主人公は女性です。失われたものは「ドラクメ銀貨」1枚です。ドラクメ銀貨1枚は1デナリオンと等価で、1デナリオンは労働者1日の稼ぎ高です。持ち主の女は1枚の銀貨を見失うと必死に探し求めます。イエスは「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と言われた。「捜さないだろうか」と疑問形で語ったイエスの気持ちは「捜して当然だ」と言うことです。
ドラクメ銀貨1枚は今日の日本円にして約1万円でしょう。決して少ない金額ではないが、日本の多くの女性、1万円なくしたと言って気が狂うほど必死に捜すでしょうか。この物語を理解するには、この時代の女性の社会的位置とドラクメ銀貨に込められた意味を理解しないと、本当のところが見えてこないのです。この時代、女性は自分のお金を持っていなかった。お金の管理は夫がしていました。では、この女性が持っていた10枚の銀貨は、どういうお金だったのでしょう。この時代、結婚した女性は銀貨をまとめてネックレスみたいにして首に懸け肌身離さなかったと言われています。あるいは内密に仕舞っていた。
このお金は女性が嫁いできた時に、実家の親から「何かあった時に使いなさい」と渡されたものでした。女性は簡単に離縁され、離婚は男性の一方的な権利です。子を生まない、夫や夫の親に口答えする、命じられた仕事・家事ができない、何でも離縁の理由になった。離婚され放り出されたら、その日から生きていけません。社会的な保証はない。そのため娘を嫁がせる時に、親が「いざという時に、実家に帰り着くことができるように」と渡したのが、このドラクメ銀貨10枚ではないか、と言われています。
こう考えると、この女性が火がついたように懸命に捜す理由が分かると思います。この銀貨に彼女の命が懸かっていたのです。命の保証みたいなものです。だから「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜す」のが当然だろうと言ったイエスの言葉が生きてくるのです。通り一遍ではない。夜になっても灯りをつけ、家中を徹底的に念入りに探し回る女性の姿が浮かび上がってきます。1枚の銀貨を、自分の命のように貴重なものとして必死に捜します。
イエスは、このことはファリサイ派や律法学者でも分かるはずだ、大切なものは誰であろうと必死になって捜すではないかと言ったのです。この女性の姿こそが、神の前から失われた罪人を訪ね求める神の姿です。1枚の銀貨を「無くした」と、新共同訳は「無」という訳語を用いた。「無」は非存在を意味します。銀貨は「無になった」ではなく「見失われた」のです。銀貨は持ち主の手元から失われているが、「無」になったのではありません。人間は、罪を犯し、神から離れ、神の前から失われていますが、罪人として存在しているのです。
ドラクメ銀貨は、持ち主の手元を離れた結果、銀貨としての用をなさなくなりました。銀貨は通貨です。持ち主の手にある限り、通貨として用いることができます。しかし、持ち主の手を離れ見失われてしまった。銀貨の存在は確かですが銀貨の用をなさない。これが神の前から失われた罪人の姿です。神の形を持つ人間として、ここで生きている。しかし、神に立ち帰らない限り、人間としての本来の働きは出来ないのです。神の栄光をあらわし、神を喜ぶ生き方は、本来の所有者である神の元に立ち帰ったところでなされるのです。
見つけたら大きな喜びがあると、イエスは語ります。パーティを開いたら、銀貨1枚分よりも出費が出るでしょう。しかし、これが神の喜びです。イエスはこの喜びを「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」ことの現れだと語っています。「罪人の悔い改め」という言葉が出てきます。「悔い改め」とは方向転換を意味し、向きを変えて神の元に帰ることです。しかし、失われた羊も失われた銀貨も、悔い改めなどしません。失われた羊は自分で羊飼いの元に帰ったのではない。銀貨も同じです。自分で持ち主の元に帰ったのではありません。
この例えが教えることは、持ち主である神が一方的に探し、見つけ出してくださるのです。イエスはこれが「罪人の悔い改めだ」と語ります。ここに、わたしたちの悔い改めを可能にする土台、根拠が語られているのです。持ち主の懐に戻ってこそ、わたしたちは悔い改めの言葉を語ることが出来るのです。罪人の悔い改めは神の愛の働きです。神ご自身が失われたものを懸命に探し求めてくださる。ここに悔い改めて救いにあずかる土台が据えられているのです。神の捜し求めこそ、罪人の悔い改めの根拠なのです。