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第157回 模範生の問題

聖書=ルカ福音書15章25-29節(32節まで)

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

 

 聖書個所を、ルカ福音書15章25-29節までとしましたが、聖書をお持ちの方は32節までお読みください。新共同訳聖書では、この個所の冒頭に「放蕩息子のたとえ」と小見出しをしていますが見当違いです。この個所の強調点は、弟息子よりも兄の方にあります。弟は兄の物語の導入部なのです。二人の息子の性質はたいへん違っていました。弟は才気煥発で能力もあった。「兄の方は畑にいた」と記されます。弟と正反対の生活をしてきました。弟が家出した後も父親と一緒にいました。弟が半分にしてしまった財産にも愚痴も言わず、年老いた父の仕事を継ぎ、農作業を取り仕切って勤勉に働きました。兄の「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」との言葉は嘘ではありません。

 兄は表面的には絵に描いたような孝行息子です。「こんな息子さんだったら、うちの娘もらってもらえないか」と言われるかもしれません。周囲の人たちから「よくできた子だ」と感心され、模範生と見られていました。しかし、社会の模範生であった兄が、実は問題を抱えていたのです。

 弟の帰宅によって、兄の抱える問題が見えてきたのです。お父さんは弟息子を見つけて走り寄って迎え、抱きかかえて家に入れ、喜んで祝宴を開きました。兄は畑から帰ってきます。働いてくたくたになった「兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた」。静かだった家です。ところが近くに来ると歌や踊りの声がする。僕に何事が起こったのか「見て来い」と命じます。僕は戻って来て、「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」と報告しました。

 これを聞いた兄は長年押さえてきた怒りが一気に噴き出した。「兄は怒って家に入ろうとはせず」と記されています。今度は兄が家を出てしまっている。迎えに出た父に激しく言います。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」。積年の恨みつらみをぶちまけた。弟に対する妬みと父に対する恨みが爆発した。

 兄の3つの言葉に注意したい。1つは「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」。自分は一生懸命仕えてきた。「それなのに」報われていないと言う。これは、わたしたちも経験するのではないでしょうか。妻として、夫として、教会員として、これだけ奉仕してきた。しかし「報われていない」と不満がくすぶっています。

 2つは「わたしは何年もお父さんに仕えています」。「仕えている」と訳された語は、直訳すると「奴隷として仕える」です。兄はこの言葉でこれまでの生き方を語っているのです。父に忠実な自分の生き方を「わたしはあなたの奴隷として生きてきた」と言う。これが彼の自己理解です。何年もの間、奴隷のように仕えてきたのだと。

 3つは「あなたのあの息子」という言葉です。「弟」とは受け止めない冷たく突き放した言葉です。「あなたのあの極道息子だ」。そのために肥えた子牛を屠らせた。父に対する恨みの言葉です。弟の帰還を喜んでいる父親の気持ちがまったく分かっていません。

 兄の抱えていた問題は何でしょうか。父親の思いを何一つ理解していなかったことです。父と一緒に生活し一緒に仕事をしてきました。しかし、父の気持ちが分かっていなかった。父の言葉を奴隷のように聞いて従ってきただけです。父から離れていたのは弟だけでなく、兄も心は遠く離れていたのです。イエスは、この兄の姿にファリサイ派、律法学者たちの姿を重ね合わせて見ているのです。ファリサイ派、律法学者たちは、律法を忠実に守って生きた人々です。しかし、奴隷のように守る努力をしてきたのであって、律法を与えた神の心、神の思いについて考えてみようともしなかったのです。

 兄は怒って家に入ろうとしません。逆転が起こっています。弟は父の家で祝宴の席に着いています。兄は外にいて祝宴に加わろうとしません。神の盛大な祝宴の席に着くことが救いにあずかることですが、兄は祝宴の外に立っています。罪人の代表である弟が悔い改めて神の祝宴にあずかり、長年、神に仕えてきたイスラエルの民が祝宴の外に立っている。父が出てきて「なだめ」ます。「なだめる」と訳された言葉は「傍らで慰め、かき口説く」です。父は、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と言います。これこそ福音です。どんな報いがあるかではありません。一緒にいることを喜ぶ神です。神が一緒にいて「全部お前のものだ」と言う。兄は、この父の愛を受け続け、それに養われてきた。そのすばらしさを知ってほしいのです。