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第160回 十字架に何を見るか

聖書=マタイ福音書27章45-52節

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。

 

 キリスト教会は今、イエスの十字架の受難を覚え記念する時を過ごしています。マタイ福音書が描くイエスの姿は、人間的な意味での栄光の神のみ子ではなく、十字架で惨めな死を遂げる姿です。十字架上のイエスを描いて、あなたはこのイエスをどう見るかと、問いかけています。

 イエスは今、十字架に架けられています。福音書記者のマタイは十字架の出来事を時間の経過の中で記します。イエスは午前9時頃に十字架につけられました。「昼の12時に、全地は暗くなり」と状況を描いています。この暗黒はイエスが体験している霊的な暗さを示していると言えるでしょう。3時になります。午後3時は、神殿において小羊を捧げる時間です。この時間を記すことによってイエスは神の小羊として捧げられたと、暗示しているのです。

 イエスは十字架上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大きな声で叫ばれました。これは「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の言葉です。この言葉は、十字架の死の意味を物語る大切な言葉です。信仰を持たない人には、この言葉は「なんと惨めな言葉だ」としか理解できないでしょう。以前、若い女性から「なぜ、イエス様ともあろう人が、こんな惨めな死に方をしたのですか」と尋ねられました。

 確かに、イエスは惨めな死に方をされたのです。これについて、弁護する必要はありません。弁護などしてはならない。イエスは殉教者ではありません。わたしたちが見なければならないのは、イエスが「見捨てられている」事実です。同胞の人々に見捨てられた。弟子たちにも見捨てられた。それだけではない。「神が、わたしを見捨てている」という叫びなのです。

 わたしたちは、イエスの十字架に何を見るのか。罪に対する神の厳しい裁きを見るのです。イエスは罪のない人でした。その罪なきイエスが、わたしたちの全ての罪を担われたからです。コリント第Ⅱの手紙5章21節に「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」と記されています。イエスはわたしたちの代表として、わたしたちのすべての罪を背負って十字架に架かっておられるのです。このイエスに対して、徹底的に裁いているのです。神は聖なるお方で罪を罪として徹底的に裁かれます。この神の裁きが具体的に「神の見捨て」としてなされているのです。

 さらに、わたしたちは、イエスの十字架において何を見るのか。神の愛と憐れみです。罪に対する裁きを、わたしたちに対してではなく、神の御子であるキリストに対してなしておられるのです。ここに、神の愛と憐れみが示されています。イエスが十字架において血を流すことによって罪が贖われ、償いがなされました。イエスは、古今東西のすべての人の全ての罪を担い、罪そのものとなって、十字架で、神に裁かれ、見捨てられ、滅びを体験してくださいました。

 わたしたちは、このキリストの十字架の贖いによって救われているのです。わたしたちがどんなに罪深くても、イエス・キリストが代わってわたしたちのすべての罪を担い、裁きと処罰を受けて下さったのです。ですから、わたしたちがイエスを救い主と信じて、イエスと結ばれるならば「あなたの罪は赦されている」と、神ご自身が宣言して下さるのです。

 イエスの十字架に付随する事件が記されています。神殿の垂れ幕が裂けた出来事です。イエスの十字架の出来事はキリストの大祭司としての働きの完成でした。旧約時代の大祭司は、民の罪の贖いとして年に一度、神殿の奥、至聖所に小羊の血を携えて入ります。聖書は「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブライ書9:22)と記します。罪の赦しのためには罪の裁きと処罰としての血が必要なのです。旧約時代には小羊の血が流されました。しかし、動物の血で人間の罪を贖うことは出来ません。型を示したに過ぎません。

 しかし今、イエスはご自身の血を流して、その血をもって贖いをしておられるのです。「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブライ書9:12)。イエスの十字架は、わたしたちの大祭司であるキリストの血による罪の償い、完全な支払いとなったのです。

 福音書記者マタイは、ゴルゴダの丘から離れているエルサレム神殿の中での人知れぬ「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ことを関連して記しています。「神殿の垂れ幕」とは、至聖所に至る道を隔てる幕のことです。垂れ幕があることは、神と人とが隔てられていることを示しています。しかし今、イエスが十字架で罪の贖いとしての血を流してくださった以上、神と人とを隔てる幕は不用になったのです。罪が赦され、神と人とが交わりをする道が開かれたのです。神殿の終わりです。わたしたちは、キリストを信じて、キリストにあって、自由に神との交わりができるのです。