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第162回 剣を取る者は、剣で滅びる

聖書=マタイ福音書26章51-53節

そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。

 

 今、世界は「第3次世界大戦」の入口に立っていると言っていいでしょう。ロシアがウクライナに侵攻し、一般民衆をも巻き込んだ悲惨な戦争が展開されています。これに世界中が呼応して、ウクライナに武器を送り込み、ロシアを経済封鎖しています。ロシアは孤立化を深め、一触即発の状況になっています。80年前に、日本が世界の中で孤立化して、経済的に締め上げられて、開戦へと追い込まれていった状況と似てきているのではないでしょうか。

 80年前の日本と大きく異なるのは、ロシアが核兵器大国であることです。孤立化し追い込まれて核兵器を使えば、悲惨な核の報復戦争になります。このような事態は断じて避けねばなりません。人類の冷静な理性を働かせ、報復合戦をとどめねばなりません。なんとしても「憎しみに対して憎しみを」を回避せねばなりません。平和の回復を祈ります。

 今回は、上記の聖書個所からお話しします。状況は緊迫しています。イエスがユダヤ教当局者に捕らえられ、大祭司の家に連行されようとしています。この事態を阻止しようと、イエスの弟子が剣を抜いて大祭司の手下の片耳を切り落としたのです。この弟子はペトロと言われています。イエスを案じて、なんとかこの危機からイエスを救い出そうと武力行使をしたのです。圧倒的なユダヤ教当局者たちの武力の前にささやかな武力的抵抗をしたと言っていいでしょう。

 それに対して、イエスが言われたのが「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉です。剣は、当時の有力な武器です。この武器の使用、武力の否定の言葉です。イエスの言葉は単なる武力の否定だけのことではありません。先制攻撃としての武力の否定はもちろんのこと、それに続く武力による報復の否定なのです。ペトロの剣の行使は報復行為としての剣の使用です。これの禁止であることをしっかり見て取らねばなりません。

 今までの戦争で、自分から仕掛けたと語る国はほとんどありませんでした。相手が仕掛けてきた、相手が悪い、自分たちの行為は受け身の「自衛行為だ」と主張します。攻められたから攻めた、報復だというのが常なのです。ロシア側も、ウクライナ側も、そう語り、ますます激しく戦闘を続けます。それぞれが自衛の戦争だと主張しています。

 このロシア・ウクライナ戦争を奇貨・チャンスとして、日本でも戦争のための備えを厚くしようとする人たちがいます。アメリカとの「核兵器の共有」ということを言い出している人たちもいます。アメリカの核兵器を利用して近隣諸国を核攻撃しようという恐ろしい思想です。今回のロシア・ウクライナ戦争は日本にも極めて危険な状況を産みだしています。

 キリスト教の中にも「正義の戦争」という思想があります。改革・長老教会の基本的な信仰告白「ウェストミンスター信仰告白」の第23章2項に「新約のもとにある今でも、正しい、またやむを得ない場合には、合法的に戦争を行うこともありうる」と記されています。この戦争肯定の思想は、古代のアウグスチヌス以来のもので、ヨーロッパ世界の基本的な考え方、伝統的思考となっていると言っていいでしょう。この条項の存在が今日も戦争を支える精神的支柱の1つとなっていることは否めません。

 しかし、よく考えると、この考え方は、イエスの言葉「剣をさやに納めなさい」と大きく違っていると言わざるを得ません。人の生きる道を定めた十戒の「あなたは、殺してはならない」にも違反しています。「合法的な正しい戦争」などは、決して聖書的でも、キリスト教的でもありません。まやかしの論理に過ぎません。戦争を肯定するための虚しい論理です。特に考えねばならないことは、古代・中世の時代の戦争と大量破壊兵器や核兵器の出現した今日の戦争とはまったく様相が異なります。戦争は巨大な犯罪行為です。

 イエスは「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と語った後に、「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」と言いました。イエスは神の御子で、超自然的な天の力を用いることの出来るお方です。しかし、イエスはご自分を守るために超自然的な天の力さえも用いないのです。

 イエスは、十字架への道を歩み続けました。これがまことの平和の道です。人の救いのために自らを犠牲にして十字架を担う道です。武力で報復する道ではなく、十字架で人々の罪を償う道を選び取られたのです。罪人として不義を担い、十字架の死を担われました。キリスト者は、この道を歩まねばなりません。イエスの贖いの死によって、ユダヤ人と異邦人と区別した差別の壁を取り除き、平和をもたらしたのです。キリストに在って国境も人種も民族も性別もありません。イエスの十字架において、すべての人が1つとなり、神の平和が支配するのです。あなたも、このイエスのもとに集い、まことの平和確立のために働こうではありませんか。