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第164回 主がお入り用なのです

聖書=マタイ福音書21章1-7節

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

 

 今回は、上記の聖書個所から「主の召し」についてお話しします。キリスト教では、信仰への召しだけでなく、すべての生活、仕事・職業なども「主の召し」の中で受け止めていきます。ここには「ろばの子」が神のご用のために召し出されたことが記されています。ここに召しの原型が示されていると言っていいでしょう。

 イエスの生涯にとり重要な最後の一週を迎えようとしています。イエスは、これから十字架でメシア預言を実現する者としてエルサレムに入ります。この預言実現の中で、特別な意味を持つのが「ろばの子」に乗ることです。「ろば」によって表されていることは柔和と労役です。「柔和なお方」で「くびきを負うお方」です。イエスは、立派な軍馬に乗るのでなく、柔和で労役に用いられる「ろばの子」に乗っての入城です。

 ここに、救い主としてのイエスの働きと使命が示されています。総督ピラトが「あなたは王なのか」と尋ねた時、「その通り」と答えました。イエスは、王たる救い主ですが、この世の王ではありません。軍馬に乗る勇ましい王ではなく、しもべとなって仕える王、罪人とくびきを共にし罪の重荷を担う王なのです。父なる神が、イエスを世に送られたのは罪人を滅びの中から救い出すためです。この救いのみ業を実現するために、ろばの子が必要だったのです。

 エルサレムに入る少し前、イエスは二人の弟子に近くの村に行ってろばの子を引いてくるように命じます。ろばの所有者が何か尋ねたら、「主がお入り用なのです」と答えなさい、と答を用意させています。「主がお入り用なのです」という言葉は深い意味を持つ言葉です。聖書の中には、人の心に訴える印象的な言葉があります。この言葉もその一つで、人の生き方に対して重要な意味を持つ言葉です。

 イエスは、ろばの子がいることを承知で、「それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい」と、「ろばの子」をお召しになりました。同じように、わたしたちをもお求めになります。「主がお入り用なのです」と。わたしたちの生涯、具体的には生活と仕事を「主がお入り用なのです」という視点からとらえるのです。主婦であること、母親であることも含めて、あらゆる仕事、働きを含めて、神が「わたしを必要としておられる」こととして理解するならば、その時、人の生活と仕事は充実し光り輝くものとなります。

 生活と仕事を、「神が必要としているもの」として理解するところで、仕事はパンを得るためだけではなくなり、隣人に仕える働きとなります。生活と仕事を用いて、神が人間を救い、祝福するからです。「召命」という言葉があります。神がお召しになることです。「主がお入り用です」と招いておられる仕事が「職業・仕事」です。ヨーロッパ中世では、職業に聖と俗の区別がありました。しかし、宗教改革の中で、あらゆる職業・仕事が神の召しであることが自覚されてきました。人の生活と仕事を用いて、神が働かれると理解するのです。

 さらに、「主がお入り用なのです」という言葉は、仕事・職業ということだけでとらえてはなりません。日常的な生活の中で具体的に、このみ声を聞くのです。足の不自由な方が重い荷物を持って困難している時に聞くかもしれません。目の見えない方が横断歩道を渡る時に聞くかもしれません。孤独な人を見かけた時、病人に出会った時、不当な扱いを受けている人に出会った時、「主がお入り用なのです」という召しの言葉を聞くことがあるのではないでしょうか。

 ろばの子に乗るイエスの姿を想像してみて下さい。なぜ、イエスはろばの子を召したのでしょう。乗り物として優れているからか。優れた乗り物なら馬でしょう。ろばの子に跨がったイエスの足は地面に届いていたでしょう。大人のろばであれば力強いのですが子ろばは力も弱く、よろよろしながら乗せていたのではないでしょうか。エルサレム入城に際して、ろばの子が用いられたのは優秀だからではなく、イエスの柔和さを証しする器として用いられたのです。

 キリスト者はイエスに召されたしもべです。わたしたちが役立つ器であるから用いられるのではありません。不十分な子ろばのような存在に過ぎません。しかし、イエスは「あなたが必要なのだ」と召しておられます。不十分な拙い者を用いて、神が人を祝福し救うための器として用いて下さるのです。召しのみ声に応えて、「わたしがここにおります。お用い下さい」と、召しに応えたいものです。